第53回 ゴマ塩頭とアゴヒゲをトレードマークとする男
脇英世
2009/8/7
本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、IT業界を切り開いた117人の先駆者たちの姿を紹介します。普段は触れる機会の少ないIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部) |
本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の冒険者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。 |
デルバート・ヨーカム(Delbert W. Yocam)――
元ボーランド会長兼CEO
デルバート・ヨーカムは1944年生まれで、短くしてデル・ヨーカムと呼ばれることがある。カリフォルニア州立大学のフラトン校を卒業し、カリフォルニア州立大学ロングビーチ校で修士号を取得した。修士論文はビジネス・アドミニストレーションに関するものであった。
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デルバート・ヨーカムはカリフォルニアの海と太陽を愛好しており、快速モーターボートが趣味である。デルバート・ヨーカムは典型的なカリフォルニア人らしく、ゆっくりと話す。そのため、スピーチの記録は読みやすい。ビル・ゲイツのスピーチ記録では、時々脈絡がなく意味不明なことがあったりするが、デルバート・ヨーカムの話にはあまり矛盾がない。しかし、分かりやすい半面、熱っぽさに欠ける。
デルバート・ヨーカムは話をするにも歩くのにも慎重である。神経質で机の周りやオフィスがきちんと整頓されていないと気が済まない。いつもノートを小脇に挟んで、他人が話したことを克明にノートしている。
デルバート・ヨーカムについて詳しく書いたのは、多分ジョン・スカリーで、『オデッセイ―ペプシからアップルへ』(邦訳『スカリー』)の中で7カ所も触れている。
1979年、デルバート・ヨーカムは35歳でアップルに入社した。前職はフェアチャイルドの資材担当マネージャであった。デルバート・ヨーカムはアップルII 事業部の業務を統括していた。当時、アップルのマーケティングチームは、大学を出た若者ばかりで経験が浅く、実務経験を積んでいたデルバート・ヨーカムは彼等を巧みに導いた。
デルバート・ヨーカムは数字と実務に強いという評判を得て、スカリーの目に留まり、1986年、執行副社長と最高業務責任者(COO)を兼ねることになった。デルバート・ヨーカムはアップル社内の全事業部を統括することになったのである。デルバート・ヨーカムは、ずさんで放縦極まりないアップルの内部に規律を求め、製造と需要予測の一致に努力した。
しかし、並みいるアップルのつわものはデルバート・ヨーカムの指示に従うのを潔しとせず、ジョン・スカリーに詰め寄った。デルバート・ヨーカムを切らねば、われわれ全員が辞めると結束してスカリーを追い詰めた。こうして1988年8月、デルバート・ヨーカムは最高業務責任者の任を解かれた。
デルバート・ヨーカムは、1988年から1989年にかけてアップルパシフィックの社長に転出し、一定の成果を収めるが、1989年にはアップルを辞職し、悠々自適の生活に入る。1990年1月、ジョン・スカリーによって、アップルの最高業務責任者への就任を要請されるが、これも断った。
1992年から1994年にかけて、デルバート・ヨーカムはテクトロニクスの社長兼最高業務責任者を務め、一定の成果を上げたが、テクトロニクスを退いた後は、しばらく、また悠々自適の生活に戻った。
1996年11月、デルバート・ヨーカムは、ボーランドに会長兼最高経営責任者(CEO)として入社した。ボーランドはフランス生まれのハンガリー系ユダヤ人、フィリップ・カーンによって設立された。フィリップ・カーンは、1982年30歳のときに妻子を南仏に置いて、身ひとつで米国にやってきた。最初はサンノゼでMITというコンピュータコンサルティング会社を設立した。しばらくしてスコッツバレーに移り、ボーランドインターナショナルという会社を設立した。
ボーランドはターボPascalで有名になった。続いてターボC、ターボC++、ボーランドC++などの言語、開発ツール製品で評判を高めた。これらの言語製品は軽快で切れ味が良く、それ以上に魅力的なことに極めて安かった。また1984年、ボーランドはサイドキックという製品を出したが、常識破りの安さであった。フィリップ・カーンは、子どものころから差別を受けるユダヤ人の子どもとして、自衛のためにボクシングを覚え、けんかのやり方を覚えた。フィリップ・カーンはバーバリアン(野蛮人)というニックネームをもらうが、彼の商売のやり方はパリの裏町でのけんかそのものだった。フィリップ・カーンはストリートファイターという称号をもらうようになる。ボーランドはスプレッドシートのクアトロプロとデータベースのパラドックスでライバルに猛烈なけんかを売った。コンペティティブアップグレードという乗り換え値引きをやった。
この結果1991年、dBASEを擁する名門アシュトンテイトはボーランドの軍門に下った。ボーランドはdBASE、クアトロプロ、オブジェクトビジョン、インターベースなどの多様なデータベース製品を手にし、一挙にデータベース市場の65%を支配することになった。
ところがマイクロソフトは1992年11月、データベース市場にアクセスで参入し、ボーランドに奇襲をかけた。ボーランドはデータベース製品の再編に手間取り、マイクロソフト対応が遅れた。一方、フィリップ・カーンはめちゃくちゃな浪費を始めた。この結果、ボーランドの売り上げは下降の一途をたどる。1992年が4億8200万ドル、1995年が2億5400万ドル、1996年が2億1500万ドルと目に見えて減少していった。
1995年1月11日、フィリップ・カーンはボーランドの経営悪化の責任を問われて社長兼最高経営責任者の地位を追われた。
1996年11月25日、デルバート・ヨーカムが会長兼CEOに就任したとき、ボーランドのキャッシュは4000万ドルしかなかった。会社運営に必要な額の3、4カ月分しかなくなっていた。そこでデルバート・ヨーカムの最初の仕事は首切りであった。1997年2月、デルバート・ヨーカムは従業員1200人のうち300人を解雇した。4年前のボーランドには4000人の従業員がいたが、900人にまで減ってしまったのである。
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