第54回 ホームブリューコンピュータクラブのモデレータ
脇英世
2009/8/10
本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、IT業界を切り開いた117人の先駆者たちの姿を紹介します。普段は触れる機会の少ないIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部) |
本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の冒険者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。 |
リー・フェルゼンスタイン(Lee Felsenstein)――
インターバル・リサーチ・コーポレーション上級研究者
リー・フェルゼンスタインは、高校時代にコンピュータを自作しようとして失敗した経験があるという。無理もない。1945年生まれということから考えると、当時はまだ単体のトランジスタ全盛で、集積回路がようやく出始めてきたころであった。コンピュータをトランジスタだけで作成しようとすれば、膨大な数が必要になる。当時、そういう試みを行っただけでも、よほど進歩的な少年であったに違いない。
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1964年、多感な時期を迎えたリー・フェルゼンスタインは、フリースピーチ運動に影響されたらしい。UCバークレーに入学すると、工学部の学生ながら、反体制文化やアングラ文化に強く傾倒していった。そして1969年には、バークレー・バーブという出版社で働き始める。同社はアングラの反体制出版社であった。社内で内紛が起きると、これまた反体制の出版社であるトライブに移った。ここでは、営業とともにレイアウトの仕事もこなしていたというのだから、よほど小さな出版社であったのだろう。
1971年、UCバークレーをドロップアウトしたリー・フェルゼンスタインは、レッドウッドシティのアンペックスに入社した。入社後、早速サービス・ビューロー社に送り込まれ、BASICを習得させられた。アンペックスでは、データ・ジェネラルのノバというミニコン用のインターフェイスを設計した。
翌1972年には、リソース1という会社に入社した。コンピュータによる交換機を作ろうとしていた会社で、サンフランシスコ交換機という会社によって経営されていた。特徴的なのは、この会社が、米軍のカンボジア侵攻に抗議してUCバークレーを去った反体制派の人々によって経営されていたことで、当然、入社してくる技術者も反体制の思想を抱いた者たちばかりであった。世の中には変わった会社があったものである。このリソース1には、トランスアメリカ・リーシングというリース会社からリースを受けていたゼロックスのXDS940というコンピュータがあった。リー・フェルゼンスタインは、このXDS940を担当した。ちなみに、友人の関係や、おそらくXDS940を担当していた経緯で、ゼロックスのパロ・アルト研究所を訪ねたリー・フェルゼンスタインは、同研究所での研究成果に驚愕したという。
さて、1970年代当時のベイエリア(サンフランシスコの湾岸地域)において、アングラ文化の中心的存在として数えられる1人に、ボブ・アルブレヒトがいた。この人物は、CDCを辞めて、ポートラ・インスティチュートをつくっている。ここから、かの有名な「ホール・アース・カタログ」が誕生した。ボブ・アルブレヒトはPCC(ピープルズ・コンピュータ・カンパニー)というタブロイド紙も作っている。「ピープルズ」という言葉は「人民の」という意味であり、それなりの思想的意味合いを含んでいる。ボブ・アルブレヒトは、さらにダイマックスという組織をつくった。これは、一般の人々にコンピュータを教えるための組織である。ボブ・アルブレヒトは、コンピュータを一般の人々に開放することを望んでいた。人民主義、共同体主義を目指したコミューン運動である。
このころ、リー・フェルゼンスタインは、1970年代のハッカーたちによるプロジェクト、コミュニティ・メモリの運動に参加した。コミュニティ・メモリでは、カリフォルニア州バークレーの人々にコンピュータターミナルを開放し、公的な電子掲示板(いまでいうBBS)を提供した。つまり、一般の市民がコンピュータネットワークに触れられる機会を与えたのだが、運営資金などの問題もあり、この試みはなかなか実を結ばなかった。この経験から、コンピュータのターミナルは理解しやすく、簡易で、かつ直しやすいものでなければならないと知った。
リー・フェルゼンスタインは、この時期にUCバークレー出身のボブ・マルシュという人物に出会っている。ボブ・マルシュはあまりまじめな青年ではなかったようだが、2人は大学が同じということもあって意気投合し、バークレーに1100平方フィートのガレージを借りた。共同で何か会社をやろうとしていたのである。とはいうものの、実際にどんな事業を行うのかは、明確でなかった。
そんな中、1975年1月にMITSのオルテアー8800bが『ポピュラーエレクトロニクス』誌の表紙を飾り、マイコン革命が勃発した。世界で最初のマイクロコンピュータキットとして有名なこの製品は、256バイトのメモリに、出力は発光ダイオードの点滅だけという代物だったが、画期的な低価格で反響を呼び、当時は誰もがこのマイコンキットを手に入れようとし、情報を欲しがっていた。ベイエリアでは、ボブ・アルブレヒトがイニシアチブを取った。機械工でコンピュータ通のゴードン・フレンチに出会い、彼を中心に据えたのである。
1975年3月5日、シリコンバレーのメンローパークにあるゴードン・フレンチのガレージで、ホームブリューコンピュータクラブの集会が行われると告知された。MITSのオルテアー8800bに関心を持つ若者たちへ呼び掛けが行われたのである。リー・フェルゼンスタインは、雨の中トラックを運転して、ボブ・マルシュとともにこの集会に参加した。ガレージで行われた集会には32名が集まり、この中には、あのスティーブ・ウォズニアックもいた。後年スティーブ・ジョブズとともにアップルを興すことになる人物である。集会では、まずスティーブ・ドンピエールがニューメキシコ州アルバカーキにあるMITS本社を訪問した際のことを報告した。マイコン革命におけるメッカの様子が熱く語られた。さらに、ボブ・アルブレヒトが集会参加者にPCCが受け取ったばかりのオルテアー8800bを見せた。おそらく、ものすごいセンセーションを巻き起こしたことだろう。なかなか手に入らないことで有名であったからだ。
この集会に強い衝撃を受けたのがボブ・マルシュで、恋人ゲアリー・イングラムに自分の思いを語り、プロセッサ・テクノロジーという会社を興した。この会社では、入出力ボードとメモリボードを製造した。このボードには注文が殺到し、特に新興のクロメンコという会社からも注文がきた。ガレージでろくな生産設備も持たないというのに、注文がきたのには驚いたことだろう。
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