第55回 クロメンコを作った2人
脇英世
2009/8/11
本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、IT業界を切り開いた117人の先駆者たちの姿を紹介します。普段は触れる機会の少ないIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部) |
本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の冒険者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。 |
ハリー・ガーランド(Harry Garland)
ロジャー・メレン(Roger Melen)――
クロメンコ創業者
世界最初のマイクロコンピュータであるMITSのオルテアー8800によく似た製品として、IMSAI、ソル、クロメンコの3つを挙げることができる。オルテアーとソルについてはすでに紹介済みなので、今回は残るクロメンコ、そして次回でIMSAIについて見てみよう。
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1969年、スタンフォード大学に在籍していた博士課程の学生2人が知り合った。ハリー・ガーランドとロジャー・メレンである。2人の専攻は、それぞれ生物物理学に電気工学と違っていたが、アマチュア無線と電子工作という趣味が合い、友人となった。2人は共同で電子装置を作成しては『ポピュラー・エレクトロニクス』誌などに投稿し、原稿料を稼いだという。1972年に2人は卒業し、スタンフォード大学の電気工学科に勤めることとなった。ここでも2人の仲は良く、住まいも常に近所にして電子機器の実験を続けた。
1974年、2人はキュクロプスという装置を開発した。キュクロプスとはギリシャ神話に登場するシシリー島に住む1つ目の巨人である。この装置は、TVカメラから映像を取り込んでモノクロでデジタイズするもので、TVカメラは目が1つなので、キュクロプスと名付けたらしい。
1974年12月、ポピュラー・エレクトロニクス誌との打ち合わせのため、ロジャー・メレンはニューヨークへ赴いた。そのとき、ポピュラー・エレクトロニクス誌の編集部には、世界初のマイコンキットとなったMITSのオルテアー8800の箱が置いてあった。輸送中になくなり、急きょ外側の箱だけが作られたという有名なマシンである。これが同誌1975年1月号の表紙を飾り、マイコン革命を引き起こすことになったのは、極めて有名である。
ロジャー・メレンはオルテアー8800を見るなり興味を引かれ、「一体それは何ですか」とポピュラー・エレクトロニクス誌の編集長レスリー・ソロモンに尋ねた。すると、「価格400ドルを切る、インテル8080を使用したミニコンピュータのモックアップだよ」という返事が返ってきた。ロジャー・メレンには信じられなかった。当時、インテル8080は、小売りで1個397ドルもしたからである。残り3ドルでミニコンピュータが組み上げられるわけがない。そこで、レスリー・ソロモンはロジャー・メレンを自宅の地下室に連れて行き、そこに据え付けていたオルテアー8800の実機を見せた。実はこのオルテアー8800は製造番号No.0001であり、レスリー・ソロモンこそが最初のユーザーだった。
レスリー・ソロモンは、ブルックリン生まれのユダヤ人で、どうも話を少し膨らませる癖があったようだ。ほら吹きというわけではないのだが、パレスチナでイスラエルのためにペギンと戦ったことがあるとか、南米のインディアン部落へ神秘的な旅をしたとか、そういったエピソードをよく人に聞かせたという。それにしても、この人物はずいぶんと仕掛人である。自身が編集長を務めたポピュラー・エレクトロニクス誌を使って直接仕掛けたものだけでも、ハリー・ガーランドとロジャー・メレンのTVダズラー、MITSのオルテアー8800、プロセッサ・テクノロジーなどがある。このレスリー・ソロモンとの出会いが、ハリー・ガーランドとロジャー・メレンに幸いしたといえるだろう。
レスリー・ソロモンから知らされた話が信じられない思いのロジャー・メレンは、ニューヨークからカリフォルニアへの帰途、ニューメキシコにあるMITS社に立ち寄ることにした。MITS社は2人のアイデアを使った製品を発売していながらロイヤルティーが未払いであったし、何よりもオルテアー8800を2台入手して帰りたかったからである。ニューメキシコに立ち寄ったロジャー・メレンは、MITS本社の貧相なことと、従業員の少ないことに驚愕した。しかし、MITSの社長であるエド・ロバーツとは意気投合し、明け方までオルテアー8800について話し合うことになった。ロジャー・メレンは背が高く、体格の良い男であった。この点、エド・ロバーツと共通している。
ここで、ロジャー・メレンはオルテアー8800用にキュクロプスTVカメラを制御するインターフェイスボードを開発したいと提案した。警備用カメラとして役に立つだろうといったのである。実際のところ、それほど有用な代物ではなかったようだが、エド・ロバーツは大変喜び、ロジャー・メレンにできるだけ早くオルテアー8800を送り届けると約束した。この出会いが元となり、後年エド・ロバーツのMITS社と、ハリー・ガーランドとロジャー・メレンのクロメンコ社は、友好的な関係を持ち続けるのである。
約束は守られ、1975年1月に製造番号No.0002のオルテアー8800が、カリフォルニア州のマウンテンビューにあったロジャー・メレンのアパートに届けられた。2人は早速オルテアー8800に導入するためのキュクロプスTVカメラ用インターフェイス作りに取り掛かった。完成したオルテアー8800用のキュクロプスTVカメラシステムは、当時のマイコンマニアたちの集いとして有名なホームブリューコンピュータクラブでも紹介され、評判を呼んだ。
1975年11月には、彼等の作成したTVダズラーという装置がポピュラー・エレクトロニクス誌の表紙を飾った。これはカラーTVと接続してセミグラフィックスを楽しめるインターフェイス基板であった。
2人はマイコンの世界に参入し、1976年にクロメンコ社を創立した。クロメンコという社名は、2人がいた大学院の寄宿舎クローサーズメモリアルホールを縮めたものである。このホールは1954年に建設されて以来、120人の大学院生を収容できた。
クロメンコはカリフォルニア州のマウンテンビュー、チャールストンロード2432に本社を置いた。多分ロジャー・メレンのアパートではないかと思われる。スタンフォード大学にある社会人向け冬季コースの1999年から2000年向けの資料には次のように書いてある。
「メレン教授は、このときスタンフォード大学電気工学科の教授であったが、スタンフォード大学電気工学科の副議長であったハリー・ガーランド博士とともに、1976年にクロメンコと呼ばれる事業を立ち上げた」
この記述は、時間的に整合性が取れていないように思える。いかに昇進するスピードの速い米国でも、教授となるには早すぎるのである。実際のところは、講師か助教授だったのではないだろうか。
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