はじめに――1952年に生まれたことへの感謝
富田倫生
2009/8/17
本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、私たちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、日本のパソコン業界黎明期に活躍したさまざまなヒーローを取り上げています。普段は触れる機会の少ない日本のIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部) |
本連載は『パソコン創世記』の著者である富田倫生氏の許可を得て公開しています。「青空文庫」版のテキストファイル(2003年1月16日最終更新)が底本です。「青空文庫収録ファイルの取り扱い規準」に則り、表記の一部を@ITの校正ルールに沿って直しています。例)全角英数字⇒半角英数字、コンピューター⇒コンピュータ など |
日本における半導体研究のパイオニアであり、エレクトロニクスの発展に大きく貢献された菊池誠さんは、1925(大正14)年に生まれえたことを感謝したいと書いておられます。この年に生まれたからこそ、大学卒業後菊池さんは1948(昭和23)年に研究者としてのスタートを切ることになりました。
1948年――。
その後、エレクトロニクスの世界に一大革命を引き起こすことになる、トランジスタの発明された年です。
「1948年、もう1つの忘れ得ぬ要素。
それはトランジスタの誕生であった。
もしもただ1つ私が神様に感謝するとすれば、私の生命を大正14年に与えてくれたことである。そのゆえに私は、私の研究生活の原点を、トランジスタ誕生の年に重ねることができた。私の研究生活が、この時間軸の奇遇によってどれほど感謝とよろこびにみちたものになったことか」(『エレクトロニクスからの発想』講談社)
1952(昭和27)年に生まれた私にも、菊池さんにならって感謝してみたいことがいくつかあります。
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まず1つは、10代のほとんどをビートルズが活発に音楽活動を行っていた時期に重ねえたこと。彼らがイギリスからアメリカへ進出を開始するきっかけとなった曲、「抱きしめたい」のアメリカ発売が1963年12月26日。この曲はたちまちヒットチャートをかけ上がり、翌年2月7日に彼らがケネディー空港に降り立ってからは、すさまじいビートルズフィーバーが巻き起こります。
日本ではまず奇妙な社会現象として彼らの存在が紹介され、私が初めて彼らの歌声を耳にしたのも、おそらくテレビの海外ニュースによってだったと思います。小学校5年生だった少年の耳に、彼らの歌声はまず、大変奇異に響きました。これまでにまったく聞いたこともないスタイルの音楽に大いに戸惑い、唯一持ちえた感想は「何か、女の子が歌ってるみたい」というものでした。
しかしその後、ラジオから盛んに彼らの歌声が流れはじめると、少年はたちまち彼らの音楽の虜になってしまいます。
何から何までが、すべて新しかったのです。
ギターを抱え、演奏しながら歌うというスタイル。フルバンドをバックに従え、伴奏があってはじめて歌が成り立つのではありません。彼らは自分たちのために伴奏してくれる人など必要としておらず、自分たちだけで音楽空間を創り上げることができる。ギターとベースを弾き、ドラムを叩くことはけっして伴奏ではなく、歌うことと渾然一体となった演奏だったのです。
彼らよりうまいギタリスト、ベーシストそしてドラマーは、当時でもいくらでもいたでしょう。歌声だけはデビュー当時からなかなか見事だったと思いますが、それが果たして彼らをスーパーアイドルに押し上げる要素だったかどうか――。
むしろ、へたくそなギターを含めた彼らの世界を、彼らだけで作り上げるということに、若い世代は新鮮な驚きを感じた、この要素の方が本質的なのではないかと思います。
自分たちの世界を、自分たちだけでという原則は、彼らの演奏だけにとどまるものではありませんでした。彼らの歌う曲のほとんどは、ジョン・レノンとポール・マッカートニーの手になるものでした。
自分の歌いたい曲を自らが作り、演奏しながら歌う。
この新しいスタイルを教えてくれたのは、ビートルズでした。
1960年代の音楽的潮流の1つに、フォークソングがありました。当時、ビートルズの代表する音楽とフォークソングとは、使用する楽器がエレクトリックかアコースティックかから始まって、景気のいい恋の歌かそれとも社会性を帯びた歌かなど、さまざまな点で対立的にとらえられていたように思います。
しかし、自分の歌いたい曲を自らが作り、演奏しながら歌う、という大原則のところでは、両者はまったく同一です。曲が素晴らしかったり、演奏がうまかったり、歌が上手だったりすることはそれに越したことはなかったのかもしれませんが、それよりも何よりも1つのグループが、あるいは一個人が自己完結的に表現を行っていく。欠点のない分業よりもむしろ、多少のあらはあっても自分で何から何までを受け持つというスタイルにおいて、1960年代を支配した音楽の2つの潮流がまったく同じだったことは、もう少し強調されてよいことでしょう。
歌われるテーマに関しても、両者はしだいに似通っていったようです。
初期の景気のよい恋の歌でスターダムにのし上がったビートルズは、その後に発表したアルバムでは彼らの音楽に乗りまくり、リズムに合わせて体を動かしていたいファンを戸惑わせるような試みをつぎつぎに行っています。歌に盛り込まれたメッセージはより詩的になり、孤独や絶望、恋ではなく愛、政治、社会がテーマとされる。いかにもLSD体験を思わせるいささかわけの分からない歌も登場し、メッセージが多様化してくるにつれて演奏のスタイルも変化し、幅が広がっていったのです。
アイドルの変貌に驚かされたのは、ビートルズのファンだけではありませんでした。
フォークソングの代表的な旗手であるボブ・ディラン。彼のファンもまたアイドルの変身に驚かされ、一部のファンは驚きよりもむしろ怒りをもって彼に訪れた変化を受けとめました。
ビートルズのように無内容で商業的な歌ではなく、アコースティックギター一本を抱えて政治的なメッセージにあふれる自作の歌を歌うはずのボブ・ディラン。そのボブ・ディランが1965年のニューポート・フォーク・フェスティバルにエレクトリックギターを抱え、バンドを引き連れて登場したとき、観衆の多くは目を丸くしました。そして彼がロックビートに乗せて歌いはじめるや、観衆からはブーイングが起こり、彼は舞台を下りざるをえなかったのです。
昔ながらのアコースティックギターを持ってもう一度舞台に立った彼は、涙ながらに「新しいマッチをすって、やりなおすんだ。すべては終わったんだから」と1曲だけ歌い、ステージを下りました。この時期以降、彼のアルバムからは、狭い意味での政治をテーマとしたものはしばらく消えています。そして、ボブ・ディランの詩はより内省的になり、感覚的に研ぎ澄まされていきます。
それまでは対立的にとらえられていたボブ・ディランの歌とビートルズの歌(これは正確には、ジョン・レノンの歌といった方がよいのかもしれませんが)が互いにひとばけしたところで内省的になり似通ってくる。その後は逆に、ビートルズ、特にオノ・ヨーコと出会ったあたりからのジョン・レノンの歌には政治が顔をのぞかせるのに対し、ボブ・ディランの方はしばらくのあいだストレートには政治をテーマとしなくなります。ただここに表われた差はあくまで表面的なものにすぎず、両者はきわめて似通った作業をその後も続けていたのではないでしょうか。
もっとも、ビートルズの歌の中で「愛」という言葉が絶対的な善と位置づけられはじめたり、ボブ・ディランがキリスト教的なものに接近するようになると、私自身は彼らの選択には違和感を抱いたのですが、ことの本質は選び取られた結果にあったのではなく、彼らが自己と向き合わざるをえなかったところにこそあったという気がしてなりません。
1960年代後半に、アメリカ、ヨーロッパ、そして日本で巻き起こった学生たちの反乱は、何がしか発言したり行動したりしようとすれば、自らの立場も揺らいでくる、といった傾向を持っていました。外に向かって槍を突き出そうとすれば、その槍は同時に、自らの足下をも突きくずそうとしたのです。
こうした時代精神を、ジョン・レノンとボブ・ディランという2人の天才は、多くの若者の半歩先で受けとめ、自らとの格闘を通じて表現していったのではないか。だからこそ、あれだけの大きな支持を獲得しえたのではないでしょうか。
さて、私が1952(昭和27)年に生まれたことで、感謝したいことの2つ目です。
私が大学と縁を切った1976(昭和51)年、社会に出たとはおこがましくてとてもいえない形でしたが、この年に日本におけるマイコンブームの走りとなるキット式のワンボードマイコン、TK-80が日本電気から発売されています。
ただし、私立大学の文科系に籍を置いていた私が個人で所有しうるコンピュータなるものに本当に興味を持ちはじめるのは数年後からなのですが、今こうして振り返ってみると、やはりこの偶然を多少は喜ばせてもらいたい気持ちになります。
おそらくこの本が発売された直後、1985(昭和60)年の3月いっぱいで、私は大学を離れてから丸10年を過ごしたことになります。その10年間に果たして自分は何をしえたかと自問するとまったく恥ずかしい限りですが、それに引きかえ個人が所有することを大前提としたパーソナルコンピュータが示した進歩は何と大きかったことでしょう。
今はもう博物館にでも収めておくのが似合いそうなTK-80発売からまだ10年たっていないのです。
日立のベーシックマスターやシャープから出ていたMZ-80Kなどいくつかの先行するマシンはあったものの、おそらくほとんどの人が日本における初の本格的パーソナルコンピュータとして指摘されるだろう日電のPC-8001の発売からは、わずかまだ5年です。
ワンボードマイコンの上で個人が所有するコンピュータというアイディアが生まれ、パーソナルコンピュータという概念が誕生して急速に発展していく――。この過程はしばしば、革命的と形容されます。私自身も、けっして革命的でないとは思いません。
しかし、「パーソナルコンピュータの革命的な進歩」などという一文に出くわすと、思わず首をひねりたくなってしまいます。確かにフロッピーディスク装置や果てはハードディスク装置までが外付けの記憶装置として使えるようになったこと、半導体メモリの記憶容量が値段に比して急激に安くなったこと、パーソナルコンピュータ用のCPU(中央処理装置)として16ビットのものが当たり前になってきたことなどなど、ハードウェアの進歩には目を見張らせるものがあります。ただし、もっぱらハードウェアの進歩だけに「革命的」なる言葉を奉っていたのでは、何か非常に重要なことを見逃してしまう気がするのです。
私は、パーソナルコンピュータの誕生は1つの革命だったと考えています。
結局この本のタイトルは『パソコン創世記』に落ちついたのですが、途中までは第1章の章名「誕生! 超貧弱マシン」をタイトルにと考えていました。
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