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パソコン創世記 インデックス


毎日公開するこの連載では、日本のパソコン業界黎明期に活躍したさまざまなヒーローを取り上げて紹介します。普段は触れる機会の少ない日本のIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組むきっかけとなればと思います。

なお、この連載は『パソコン創世記』の著者である富田倫生氏の許可を得て公開しています。「青空文庫」版のテキストファイル(2003年1月16日最終更新)が底本です。

第1部 はじめに
はじめに――1952年に生まれたことへの感謝
パソコン創世記(1) 
1952年生まれであることに感謝する。ビートルズの活動期に10代を過ごし、大学卒業時にはマイコンが発売された。すべてが新しい時代だった


第1部 第1章 誕生! 超貧弱マシン
オモチャマシンの革命劇
パソコン創世記(2) 
NECのエースであるパーソナルコンピュータは、誕生当初「変なオモチャ」扱いだった。取り仕切ったのは弱小の販売部門。技術部は見向きもしなかった

弱小「マイクロ部」の誕生
パソコン創世記(3) 
渡辺和也は悩んだ。販売部長になったものの、営業経験など皆無である。おまけに皆がマイコンをゲテモノ扱い。これではあまりに貧弱すぎる

草むしりと評価用キットの日々
パソコン創世記(4) 
草むしり後に評価用キットをいじる。それが後藤富雄の日常だった。4004を搭載した本格キットだが、組み立てただけではうんともすんともいわない

アメリカからの風
パソコン創世記(5) 
当時、機能は回路上に作り付けるのが常識だった。そのため、皆ハードとソフトの概念がさっぱり分からない。「ソフトウェア? きっと織物のことじゃないか」

簡易教材開発作戦
パソコン創世記(6) 
 テレタイプ教材は規模が大きすぎて皆が触れない。各人が使える簡単な教材を作れないものか。渡辺が思案しているところに、後藤がラフを持ってきた

開幕のベル響く
パソコン創世記(7) 
TK-80発売開始。後藤と加藤はマニュアルにこだわった。もともと趣味でキットを組み立てていた2人である。マニュアルの重要性を知り尽くしていた

ビット・イン日誌に記された兆し
パソコン創世記(8) 
修理・相談依頼の多さに、渡辺は驚いた。中にはシンセサイザー奏者からの相談まである。TK-80は技術者向けのはずなのに、これはどうしたことだ?

TK-80への不満
パソコン創世記(9) 
期待を胸にTK-80を買ったユーザーは、ほどなくして絶望を味わうことになる。彼らは個人用マシンだと誤解して、TK-80を購入したのだった

個人用コンピュータ元年
パソコン創世記(10) 
アップルII、PET、TRS-80。本格的なパーソナルコンピュータ3機種が出そろった1977年は、のちに「個人用コンピュータ元年」と呼ばれることになる

大いなる誤解
パソコン創世記(11) 
TK-80を個人用のコンピュータととらえる誤解は、発売直後から始まっていた。『ASCII』創刊号には、大いなる誤解に基づいた記事が掲載されている

二筋の道
パソコン創世記(12) 
TK-80は、渡辺らの思惑を超えて一人歩きを始めた。このままTK-80を育てたい。しかし、渡辺の部署はあくまで販売部。製品開発はできそうにもない
TK-80上の革命
パソコン創世記(13) 
ユーザーたちはベーシックが使えるようにTK-80を改造しようとした。そして第3勢力による専用電源の発売。TK-80はパソコンへの道を歩み始めた
新人類の加入
パソコン創世記(14) 
マイコン部の新人は、半歩先の技術を持つ新人類だった。渡辺は新人に、評価用キットとして生まれたTK-80をコンピュータとして育てるよう命じた
もう1つのベーシック
パソコン創世記(15) 
渡米した渡辺は、西和彦と知り合いになる。西は熱弁した。「これからはパソコンとベーシックの時代ですよ。ビル・ゲイツという男をマークするべきです」
ビル・ゲイツとの出会い
パソコン創世記(16) 
 ビル・ゲイツを一目見たとき、渡辺は軽い失望を覚えた。何しろ若い。しかし、ゲイツと話し始めるや、渡辺の失望は大きな驚きに変わっていった
苦しい決断のとき
パソコン創世記(17) 
本命PC-8001のベーシックは、2種類を並行開発していた。1つはマイコン部 土岐のもの。もう1つはビル・ゲイツのもの。土岐のベーシックの方が速かった
逸脱への歯止め
パソコン創世記(18) 
PC-8001のプロトタイプを前にして、専務 大内は初めて渡辺の動きにストップをかけた。日本電気の本業から大きく逸脱していると思われたからだ
決断のとき
パソコン創世記(19) 
日本電気のような巨大組織では、新しいアイデアは上層部にいくまでにつぶれてしまう傾向が強い。それだけに、渡辺の示した勢いは貴重だった
ケチケチ体制のスタート
パソコン創世記(20) 
販売ルートの問題、市場が本当にあるのかどうか――大内の問いに渡辺は即座に切り返した。渡辺の熱弁を受けて、とうとう大内はゴーサインを出した
狼煙上がる
パソコン創世記(21) 
1979年、マイクロコンピュータショウ'79開催。PC-8001人気は初日から爆発した。PC-8001のブースには大群が押し寄せ、次々に質問を投げかけた
日電PC帝国誕生
パソコン創世記(22) 
「うちでぜひPC-8001を扱いたいのだが」。自分の知らない商品への問い合わせを受け、日電会長 小林宏治は目を丸くした。アメリカでの出来事である
力はいずこより
パソコン創世記(23) 
日電のPCシリーズは、偉大なる誤解によって誕生した。TK-80をパーソナルコンピュータにまで成長させた力は、どこからやって来たのだろうか

第1部 第2章 
タケシ、君の彼岸としてのパーソナルコンピュータよ
タケシ、君の彼岸としてのパーソナルコンピュータよ
パソコン創世記(24) 
1978年、広島。「もう、自分は生きていてはいけない」。1人の男が絶望感もあらわにつぶやいた。男の名前はタケシ。精神病院への入院経験を持つ
響く歌声
パソコン創世記(25) 
1969年4月、タケシは高校の門をくぐった。合計631人の逮捕者を出した安田講堂攻防戦から3カ月が経過。騒動は高校生にまで飛び火していた
逸脱分子の「うた」
パソコン創世記(26) 
フォークソングは、青年たちにとって自己の表現手段だった。「うたの会」を結成した逸脱分子たちは、歌を歌い、政治について議論を戦わせた
大学受験に背を向けた日
パソコン創世記(27) 
タケシは大学受験に背を向けた。「大学はしょせん、国家や資本家によって運営されている機関だ。自分は国家に踊らされたくない」。
浅間山荘事件と「警察官募集」の貼り紙
パソコン創世記(28) 
1972年、浅間山山荘事件が発生。高校を卒業したタケシは警察官になる道を選んだ。国家機関は嫌いだ、だからこそ発見があるかもしれない
警察学校よさらば
パソコン創世記(29) 
 警察学校の試験で、タケシの成績は同期中トップだった。タケシは迷う。「このままでは、本当に警察の人間になってしまう」。タケシは辞表を提出した
明日を食らう虫
パソコン創世記(30) 
 1973年、ベトナム戦争終結。タケシは電話工事の職に就いた。連綿と続く単調な生活。やがて、タケシの心に巣食う虫が「腹をすかせた」と騒ぎ始めた
失われたユートピアを求めて
パソコン創世記(31) 
早稲田大学教授の新島淳良は、中国に理想を抱いていた。しかしそこにユートピアはなかった。彼は「山岸会」に傾倒、共同生活実践へ身を投じた
ヌエのような男
パソコン創世記(32) 
山岸会で使う言葉は独特だ。「話す」は「放す」、「会議」は「研鑽会」と呼ぶ。山岸の強烈な個性に、多くの人が惹かれた。タケシの妻もその1人だった
「陽」の世界への啓示
パソコン創世記(33) 
タケシは山岸会の特講に参加した。特講では3日以上、 延々と話し合う。タケシは頭の中が空っぽになるような、奇妙な開放感を味わっていた
再び春日山
パソコン創世記(34) 
タケシは再び春日山を訪れた。1976(昭和41)年、タケシは22歳、ヨーコは23歳となっていた。この年の8月、日本電気からTK-80が発売された
愛という、たよりない言葉
パソコン創世記(35) 
あるときはこの言葉の中に、人生のすべての扉を開く鍵が見えることがある。しかしその鍵をつかもうと腕を伸ばしたところで、何人がそれに触れうるか
電話工事の仕事をやめた
パソコン創世記(36) 
精神のジェットコースターに乗って、タケシは沈鬱の底から昂揚の高みまでを駆けめぐった。タケシの脳の神経回路は灼熱化しはじめていた
鶏が鶏として生きる
パソコン創世記(37) 
7ヘクタールほどの敷地には、鶏舎や牛舎、豚舎が立ち並び、肉処理工場、飼料の配合工場、建物を自前で作るための木工場なども用意されていた
新島淳良が去る
パソコン創世記(38) 
夏を予感させる鮮烈な太陽にあぶられ、タケシは立ちつくしていた。タケシは通行人にたずねた。「僕は、どっちへ行ったらいいんでしょうか」
太宰治と谷川俊太郎
パソコン創世記(39) 
8月2日、再入院。3日には、中学、高校と同じだった友人が病院を訪ねてくれた。太宰治の小説と谷川俊太郎の詩集を受け取った。しばらく話し込んだ
悪魔の左手
パソコン創世記(40) 
職安で紹介を受け、電話工事の仕事を始めた。まず電電公社から元請けに仕事がまわされる。そこから下請けの作業グループに仕事が割り振られる
マイコン基礎講座
パソコン創世記(41) 
タケシは古本屋で「マイコン基礎講座」を手に取った。A5判横組みの本で、著者は小黒正樹。この本を契機にタケシはパソコンの世界へ入っていく
マイコンのお目ざめプログラム
パソコン創世記(42) 
「マイコンのお目ざめプログラム」は、TK-80に付いている表示装置、7セグメントのLED上に両まぶたを表示する。次にこれが3度、目をパチクリする
機械語に正面から取り組む
パソコン創世記(43) 
ハードウェアとソフトウェアの境目、どこまでの機能がハードで実現されており、どこからがソフトによっているかが見えてきた。「なるほど」と思った
TK-80とタケシ
パソコン創世記(44) 
タケシの通ったコンピュータの専門学校には、沖電気のOKI TAC4000というミニコンピュータがあった。「ブートストラップ」の授業にはこれが使われた
タケシ、ソフト開発の仕事を始める
パソコン創世記(45) 
タケシはいま日本電気の「PC-9801」のキーボードを叩きながらプログラム作りを職業としている。「晴耕雨コンピュータ」。それがタケシの夢だ
テクノロジーよ、人に向きなさい
パソコン創世記(46) 
科学技術がかつてない勢いで急速に進歩している現在、我々は何度でもこの言葉を繰り返す覚悟を固めるべきなのだ。「パソコン創世記」第1部 完結
日本電気の動き、タケシの足跡
パソコン創世記(47) 
パソコン創世記 第1部のあとがき。および、参考文献一覧。日本電気内の動きとタケシ君の足跡。この2筋の道は果たして交差しえたのだろうか

第2部 序章 パーソナルコンピュータの誕生
アラン・ケイのダイナブック
パソコン創世記(48) 
パソコン創世記 第2部。1977(昭和52)年、ゼロックスのパロアルト研究所ではアラン・ケイによって“新しい道具”が考案されようとしていた
〈思考のおもむくままに〉情報を取り出せる装置
パソコン創世記(49) 
マンハッタン計画を指揮したヴァニーヴァー・ブッシュは、1945年7月号の『アトランティックマンスリー』誌に「思考のおもむくままに」と題する原稿を寄せた
電子式数値積分計算機=「ENIAC」
パソコン創世記(50) 
大砲の弾道計算を自動化するために開発されたENIACは、電子計算機の可能性を示してさまざまなプロジェクトにスタートのきっかけを与えた
「連想索引」という新しい仕組み
パソコン創世記(51) 
連想索引を駆使すれば、例えば法律家は自分の考え方や友人たちの経験、下された判決を関連づけて膨大な判例の海から求める情報を取り出せる
マウスと名付けた小さな箱
パソコン創世記(52) 
エンゲルバートらは画面の特定のポイントを指し示してコンピュータに意図を伝える装置の開発を目指した。装置には「マウス」という名前をつけた
エンゲルバートと国防省高等研究計画局
パソコン創世記(53) 
ARPA(国防省高等研究計画局)は、1967年春、資金提供している研究所の全マシンをネットワークで結ぶ計画を発表した。ARPANETの誕生である
アラン・ケイとFLEX言語
パソコン創世記(54) 
ユタ大学でケイが取り組んだのは、小型のコンピュータで使うことを想定したコンピュータ言語の開発だった。その言語は後に「FLEX」と名付けられた
タブレットと電子ペン
パソコン創世記(55) 
1968年の秋、アラン・ケイはランド研究所でグレイルと名付けられたシステムを見た。紙に文字を書き込む感覚でコンピュータを使うことができた
Smalltalkの萌芽
パソコン創世記(56) 
スタンフォード大学 ジョン・マッカーシーのグループで人工知能の研究に携わったアラン・ケイは、1年のほとんどを新しい言語の構想に費やした
紙に勝るディスプレイ
パソコン創世記(57) 
文字の鮮明さ、読みやすさ、いろいろな書体の活字を使ってめりはりのきいた文書を作成できるという点で、ディスプレイは紙に遠く及ばなかった
後藤富雄、1967年日本電気入社
パソコン創世記(58) 
1967(昭和42)年、後藤富雄は国立鈴鹿工業高等専門学校を卒業し、日本電気に就職した。配属先は集積回路事業部の設備部設計課だった
DECのPDP-8
パソコン創世記(59) 
ディジタルイクイップメントという新興の小型コンピュータメーカーが出したPDP-8という機種は、検査装置のコントロールにぴったりだった
トレーニングキット「TK-80」
パソコン創世記(60) 
日本電気製の8ビット・マイクロコンピュータ「μPD8080A」を使った組み立てキットは、トレーニングキットを略して「TK-80」と名付けられた
ドクター・ドブズ・ジャーナル
パソコン創世記(61) 
ピープルズ・コンピュータ・カンパニーという風変わりな団体が『ドクター・ドブズ・ジャーナル(DDJ)』なるホビイスト向けの雑誌を出していた
組み立てキット アルテア8800
パソコン創世記(62) 
8080を使って作られた「アルテア8800」というこの桁外れに安い組み立てキットはまず、1975年1月号の『ポピュラーエレクトロニクス』誌で紹介された
アルテアの限界
パソコン創世記(63) 
当時のミニコンピュータの本体をまねたアルテアには、キーボードやディスプレイが付いていなかった。満足な入力と出力が不可能だったのだ
MITSの頼りない実在
パソコン創世記(64) 
すでに4000台以上のアルテアの注文を受け付けたと豪語するエド・ロバーツは、MITSはやがてIBM以上の大企業になるだろうと大言した。しかし……
デイジー
パソコン創世記(65) 
瀕死の人工知能「HAL9000」が低い声でとぎれとぎれに歌った「デイジー」は、1957年にベル研究所で初めてコンピュータが演奏した曲だった
レイクサイドスクール
パソコン創世記(66) 
ポール・アレンとビル・ゲイツを結びつけたのは、2人が通ったシアトルのレイクサイドスクールという名門男子校で始まったコンピュータの授業だった
13歳のビル・ゲイツ
パソコン創世記(67) 
シアトルに設立されたCCC社はポール・アレンとビル・ゲイツのコンピュータ熱をいっそうあおり、彼らに技を磨く絶好の機会を提供することになった
ポール・アレンとアルテア
パソコン創世記(68) 
すでに大学をけ飛ばしていたポール・アレンは「会社を始めよう」とビル・ゲイツを熱心に口説いていた。アルテアの紹介記事が登場したのはその頃だった
マイクロソフトの誕生
パソコン創世記(69) 
ポール・アレンはビル・ゲイツとともにアルバカーキーにマイクロソフト社を設立し、1975年の7月にはアルテア用ベーシックの供給契約をMITSと結んだ
アルテアとS-100バス
パソコン創世記(70) 
IEEEに設けられた委員会で、アルテアのバスはあらためて定義しなおされるとともに機能を拡張され、S-100バスという学会の標準規格として確立された
波に乗りはじめたマイクロソフト
パソコン創世記(71) 
マイクロソフトは波に乗りはじめていた。1976年11月、ポール・アレンはMITSから籍を抜き、翌年の1月にはゲイツがハーバード大学の中退手続きをとった
パーソナル・コンピュータの時代へ
パソコン創世記(72) 
アメリカでは個人用のコンピュータに狙いを絞った製品が生まれつつあり、こうしたマシンに目の色を変えて取りつこうとする人々が確実に層をなしていた
 
第2部 第1章 コンピュータ本流が描いたもう1つの未来像
日本電気のコンピュータ事業
パソコン創世記(73) 
労ばかり多くして利益の上がらなかった電子計算機の分野を、日本電気はオフィスコンピュータによって、ついに採算のとれるビジネスへと転換させた
浜田俊三とNEC
パソコン創世記(74) 
昭和34年4月、高度経済成長の歯車がまさに回りはじめようとしていた時期に、浜田俊三は山梨大学工学部電気工学科を卒業して日本電気に入社した
日本電気のコンピュータへの取り組み
パソコン創世記(75) 
日本電気のコンピュータへの取り組みは、論理回路用の素子に関する基礎的な研究を皮切りに、昭和29年ごろから徐々に始まったのであった
「電子計算機の気持ちが分かる」
パソコン創世記(76) 
電子計算機をどう構成するか、どんな回路が必要で、どんなプログラムが必要か、渡部には積み木でももてあそんでいるように素直に理解できた
「これで世の中は変わる」
パソコン創世記(77) 
「これで世の中は変わる。日本電気は本格的に電子計算機をやらなければいけない」。小林宏治はSENACの計算能力を目にして、そう決意した
3年ぶりの大卒新人
パソコン創世記(78) 
東京大学第二工学部の電気工学科を卒業した石井は、1951(昭和26)年、朝鮮戦争の特需景気に日本経済が沸きはじめた年に、日本電気に入社した
SENACプロジェクトの遺産
パソコン創世記(79) 
防衛庁技術研究所から東北大学に納めたSENACと同じものを作ってほしいとの申し入れがあった。この開発担当を入社そうそうの浜田が命じられた
NEAC-1103
パソコン創世記(80) 
SENACと同じものを作れと命じられた浜田は、ぼろぼろの設計図を前に頭を抱え込んだ。これこそ後にNEAC-1103と名付けられるマシンだった
コンピュータ技術本部第2開発部
パソコン創世記(81) 
開発の実作業には、日本電気のコンピュータの開発部門を1本化して設立されたばかりの「コンピュータ技術本部第2開発部」があたった
システム100
パソコン創世記(82) 
1973年8月に発表されたオフィスコンピュータ「システム100」はマイクロプログラミング方式をとっていた。白に塗り分けられた小型のマシンだった
オフコン・ディーラー
パソコン創世記(83) 
システム100に用意されたAPLIKAのプログラムでも、頑固な中小企業の親父たちを納得させることは難しかった。オフコンディーラーたちは頭を悩ませた
マイクロコンピュータ N6300シリーズ
パソコン創世記(84) 
1973(昭和48)年10月、端末装置事業部は日本電気の製品としては初めてマイクロコンピュータを使ったN6300シリーズの発表を行った
システム100のLSI化
パソコン創世記(85) 
コンピュータにはさまざまな回路が組み込まれている。CPUだけをLSI化しても、ほかが従来どおりでは中途半端なメリットにとどまってしまう
「このぶんで行けば黒字が出せる」
パソコン創世記(86) 
今後の予測を書き込んだグラフを示し、「このぶんで行けば黒字が出せる」と勢い込んで告げると、小林は一言「累積赤字は?」と切り返した
NECインフォメーションシステムズ
パソコン創世記(87) 
1977(昭和52)年4月、日本電気はアメリカ市場開拓のため全額出資の子会社「NECインフォメーションシステムズ」(NECIS)を設立した
パソコンが仕事の道具に生まれ変わる
パソコン創世記(88) 
アメリカではパーソナルコンピュータが仕事の道具として使われ始めていた。その勢いは、じつに目覚ましかった。日本にも近くその波が届くだろう
アメリカのパソコンは仕事の道具
パソコン創世記(89) 
趣味としてのコンピュータいじりに興味を抱かなかった新しい一群のユーザーが、表計算ソフトを仕事の道具として使うためにパソコンに目を向けはじめた
シーモア・ルービンスタイン
パソコン創世記(90) 
大学卒業後、軍需用の電子機器メーカーでプログラミングとハードウエアの知識を養ったシーモア・ルービンスタインは、ビル・ミラードの会社に転職した
ゲアリー・キルドール
パソコン創世記(91) 
1942年にシアトルに生まれたゲアリー・キルドールは、高校を終えた1960年から2年間、祖父の設立したキルドール航海学校で、講師として働きはじめた
キルドールのCP/M
パソコン創世記(92) 
「なぜそんなに安売りするのか」とルービンスタインがたずねると、キルドールは「そうすればもっとたくさんの人がCP/Mを使うようになるから」と答えた
ワープロの需要
パソコン創世記(93) 
多くのディーラーが声をそろえて求めたのが、ワードマスターをさらに進歩させ、文書作成に使えるワードプロセッサーを作ることだった
マイケル・シュレイヤー
パソコン創世記(94) 
ニューヨークのフォトグラファーだったマイケル・シュレイヤーは、広告業界の猛烈主義と欺瞞に嫌気がさして、1970年代の半ばにこの世界から足を洗った
 
第2部 第2章 奔馬パソコンを誰に委ねるのか
3人の育て親
パソコン創世記(95) 
日本電気 半導体部門の1セクションが卵から孵したパーソナルコンピュータ事業。今、その事業をめぐり、3人の男が育ての親として名乗りを上げていた
マイコン入門
パソコン創世記(96) 
『マイコン入門』は、日本電気の社員が分担して執筆した。このうち、第1章を担当した渡辺和也はマニアの世界の成長を大きく見積もった原稿を書いた
NECビット・イン
パソコン創世記(97) 
1976(昭和51)年9月、秋葉原駅前のラジオ会館7階に、マイクロコンピュータの普及の拠点としてNECビット・インが開設されることになった
NECマイコンショップ
パソコン創世記(98) 
PC-8001の快走を追うように、NECマイコンショップを名乗る販売店の数が目覚ましい勢いで増えていった。1981年には168軒まで増えたのである
新日本電気
パソコン創世記(99) 
大内淳義は競合を阻止するため、日本電気のマイクロコンピュータ販売部と新日本電気の担当セクションとのあいだで調整を行うよう指示した
アストラの行く手を阻むもの
パソコン創世記(100) 
オフィスコンピュータよりも下位のマシンがアメリカでアストラの行く手を阻んでいる。すでにマイクロコンピュータ自体が16ビット化されているのだ
16ビットパソコンの条件
パソコン創世記(101) 
「これはパーソナルコンピュータにはなっていない。少なくとも、私の知っているパーソナルコンピュータではない」。渡辺はそう口を切ったのだった
IBMの誕生
パソコン創世記(102) 
1924年、CTRは社名をIBM(インターナショナル・ビジネス・マシンズ)に変更した。計算処理の増大の歴史とIBMの発展の歴史は重なり合うことになる
新世代機 システム360
パソコン創世記(103) 
システム360は、従来のトランジスターに代えてICを使うことで高速化、小型化、低消費電力化、信頼性の向上など、ハードウエアの革新を果たした
DECの躍進
パソコン創世記(104) 
1950年代のパーソナルコンピュータに携わってきたオールセンは、DECを立ち上げ、IBMの目の届かない新しい領域に、コンピュータの用途を切り開いた
世界第2位のコンピュータメーカー
パソコン創世記(105) 
コンピュータ産業で独走状態にあったIBMは、ミニコン市場の開拓でDECの後塵を拝した。IBMの背中はDECの手が届くところにあったのだった
IBM、パソコン市場に参入する
パソコン創世記(106) 
IBMの開発チームは大陸を横断し、カリフォルニア州モントレーのデジタルリサーチと、ワシントン州ベルビューのマイクロソフトを訪れた
SCP-DOS
パソコン創世記(107) 
パターソンはCP/Mをそのまま16ビットに対応させ、名前も自虐的にQDOS(Quick and Dirty Operating System)と付けた。これがSCP-DOSであった
「IBMを踏み台にして大きくなれ」
パソコン創世記(108) 
結論を導いたのは西だった。「このチャンスを絶対に逃すべきじゃない。IBMを踏み台にして大きくなるんだ。なんとしてもやるんだ」
「本気でウェルカム、IBM殿」
パソコン創世記(109) 
PCの発表直後の1982年8月24日、アップルは地元紙のサンノゼマーキュリーに全面広告を打った。「エキサイティングで重要な市場へようこそ」
マイクロソフトの拒絶
パソコン創世記(110) 
「残念ですけれど、お申し入れの件にはすぐには対応できません」。西はそう切り出した。「いつまで待てば可能性がありますか」。浜田がたずねた
パソコン市場の爆発的な成長
パソコン創世記(111) 
パーソナルコンピュータは、爆発的な成長を遂げつつあった。その奔馬の首に縄をかけ、狭い柵のうちに押しとどめることなどできはしないのだ
 
第2部 第3章 恐るべき新人類たちの夢想力
西和彦
パソコン創世記(112) 
西和彦は、巨大で聡明で老獪な幼児だった。幼児の傲慢を奮って可能性の扉を無理矢理こじ開け、底なしの貪欲をつくして実りをほおばった
パソコン革命の寵児
パソコン創世記(113) 
手厚い庇護に包まれて育った甘えっ子は、集団の一員として互いに比較され、隣り合った者と同じように振る舞うことを求められる小学校に戸惑った
新雑誌 「I/O」
パソコン創世記(114) 
雑誌作りの根城は、西が新しく代々木に借りたマンションの一室に置かれた。『I/O』と名付けた新雑誌の編集長には、星正明があたることになった
塚本慶一郎
パソコン創世記(115) 
西の部屋を訪ねた塚本は、建物のあまりの豪華さに目を丸くした。広くはないものの、下宿でもアパートでもない。まぎれもなくマンションの一室だった
西の違和感
パソコン創世記(116) 
編集方針への疑問に会社運営上の星との軋轢が加わって、翌1977(昭和52)年の春、西は『I/O』の編集作業を放り出して、1カ月のアメリカ旅行に出た
アスキー出版設立
パソコン創世記(117) 
昭和52年5月、西、郡司、塚本の3人は、資本金300万円でアスキー出版を設立した。港区 南青山のワンルームマンションが新しいオフィスだった
西和彦、ビル・ゲイツに会う
パソコン創世記(118) 
わけの分からない英語で「ベーシックを買いたい」と電話でまくしたてた東洋人が、同世代のシャープな人間であることを、ゲイツはすぐに理解した
古川享
パソコン創世記(119) 
「おまえなあ、大きくジャンプしようというときに両手に荷物を持ってたら高く跳び上がれへんやろ」。長髪をかきながら、西が諭すような口ぶりで言った
アスキー出版、マイクロソフトと提携
パソコン創世記(120) 
マイクロソフトとの提携交渉を進めてベーシックの市場開拓を狙う西にとって、新しい技術の可能性を雄弁に語りうる人材の確保は緊急の課題だった
上げ潮の男
パソコン創世記(121) 
「世界最大のコンピュータ企業と組んで大きくなるチャンスを絶対に逃すべきではない」と吼えて、ビル・ゲイツの懸念を吹き飛ばした上げ潮の男
MS-DOS
パソコン創世記(122) 
IBMがPC-DOSと名付けたものを、マイクロソフトはMS-DOSの名称で他社に販売しようと計画していた。マイクロソフトの市場覇権はここから始まった
京都セラミツク社長、稲盛和夫
パソコン創世記(123) 
サンフランシスコ発、成田行きのファーストクラス。西は隣りに座った日本人と言葉を交わした。名刺には「京都セラミツク社長、稲盛和夫」とあった
このマウスというヤツが
パソコン創世記(124) 
キーボードの脇にタバコのようなものがあった。「このマウスというヤツがね、ポイントなんですよ」。西は稲盛の目をのぞき込むようにして微笑んだ
PARC
パソコン創世記(125) 
2000台近く製造されたアルトは、ゼロックスのパロアルト研究所(PARC)で使われた。また、大学や外部の研究機関、ホワイトハウスなどで運用された
ジェフ・ラスキン
パソコン創世記(126) 
ジェフ・ラスキンはクラシックの音楽教育を受け、絵を描くことにも巧みだった。ペンシルベニア州立大学でコンピュータの使い勝手改善に取り組んだ
開発コードネーム「リサ」
パソコン創世記(127) 
「リサ」の開発計画に携わることになったラスキンはもう一方で、アップルのもう1つの次世代機「マッキントッシュ」のアイディアを練っていた
リサのインターフェイス
パソコン創世記(128) 
ジョブズはアルトを前にして、リサでなすべきことを確信した。リサのインターフェイスは、ウインドウやアイコン、マウスを中心に組み上げることに

アルトの子供たち
パソコン創世記(129) 
ゼロックスの「スター」は商業的には失敗した。だがアルトの子供たちは、視覚的な操作環境がコンピュータの可能性を拡大する、と雄弁に語りはじめた

サイバネット工業という隠し玉
パソコン創世記(130) 
京都セラミツクは1980年を前後して大きな壁に突き当たっていた。新しい突破口を求めていた稲盛和夫には、サイバネット工業という隠し玉があった

西のハンドヘルドコンピュータ
パソコン創世記(131) 
1982年、西和彦はビル・ゲイツの前にハンドヘルドコンピュータの設計図を広げた。西のプランに対し、ゲイツは関心と懸念とを等分に抱いた

マイクロソフトに行って働いてみる?
パソコン創世記(132) 
大学で医用電子工学を教えていた山下良蔵は、医療データベース用のベーシック開発をしたいと考えた。西和彦はそんな山下をマイクロソフトに誘った

ロータス 1-2-3
パソコン創世記(133) 
IBM PCの発表を受け、ミッチ・ケイパーは新世代の表計算ソフトを書く絶好の機会だと直感。1982年に会社を設立し、ロータス 1-2-3の開発に着手した

浜田の苦悩
パソコン創世記(134) 
浜田俊三は2つの選択肢を抱えて立ちすくんでいた。システム100の路線継承か、それともPC-8801互換機を、マイクロソフトの協力なしで開発するか


第2部 第4章 PC-9801に誰が魂を吹き込むか
早水潔と小澤昇
パソコン創世記(135) 
早水潔は「行く手を阻む壁」としてパーソナルコンピュータと出合った。一方、小澤昇にとってパーソナルコンピュータは、当初から「未来を開く扉」だった

裏の仕事
パソコン創世記(136) 
早水潔は浜田俊三から「裏の仕事」を指示された。日本ではパーソナルコンピュータ用にどんなアプリケーションが売られているか調べろという仕事だ

三菱電機のマルチ16
パソコン創世記(137) 
三菱電機はマルチ16でパーソナルコンピュータの未来を押さえようと考え、マイクロソフトが開発を進める表計算ソフト、マルチプランを載せると宣言した

「互換ベーシックを半年で書いてくれ」
パソコン創世記(138) 
マルチ16から半年遅れで開発中のBPCを出荷したい。このスケジュールを達成できるかの鍵は、互換ベーシックの開発を任せる古山良二が握っていた

古山良二
パソコン創世記(139) 
「システム屋はけっして主流になることはない」。日本電気のスタッフとしては初めてソフトウエア1本で進むことになった古山は、そう考えていた

古山、OSと出合い、戸惑う
パソコン創世記(140) 
古山はOSの考え方に新鮮さを感じながら、同時に戸惑いを覚えた。すべて1人でこなしてきた古山にとって、OS開発の分業体制は寂しさを感じさせた

ソフトがハードの従属物ではなくなった日
パソコン創世記(141) 
OS開発に取り組んでいても、古山は「何から何まで分かっていたい」という気持ちを拭えなかった。そうした個性は、ITOSのトラブル時に発揮された

N-10プロジェクト
パソコン創世記(142) 
新16ビット機の基本ソフトウエア開発には不確定要素が多く、与えられた時間は常識外れに短かった。だが、覚悟を決めた浜田に迷いはなかった

卓上型オフィスコンピュータ「システム20/15」
パソコン創世記(143) 
日本電気オリジナルのμCOM-1600を採用したシステム20/15は、机の上に収まる超小型サイズを売り物とするオフィスコンピュータと位置づけられた

勝負はアプリケーションが決する
パソコン創世記(144) 
N-10は簡単に売れる、手離れのよい製品にしたい。「その鍵は、パッケージソフトが握っている」――浜田俊三はアメリカでの経験から、そう考えていた

「PCサブグループ」の要望
パソコン創世記(145) 
PCサブグループの後藤富雄と加藤明は、新16ビット機に6つの注文をつけた。中でも小澤昇を驚かせたのは「拡張スロットの仕様公開」だった

悪夢の互換ベーシック開発
パソコン創世記(146) 
事業計画やハードウエア開発の順調な動きとは対照的に、古山は苦戦を強いられていた。組み上げた互換ベーシックに、さまざまな問題が浮上した

古山を苦しめる96Kバイト
パソコン創世記(147) 
機能を付け加えるために重ねた1つの石が、せっかく積み上げた石の山を崩してしまう。古山は賽の河原で石を積み上げるような気分にとらわれていた

「N88-BASICをそのまま載せているのではないか」
パソコン創世記(148) 
西和彦は緊張に背筋を粟立たせた。自分たちの最強の商品であるベーシックと同じものが、他人の手によって開発されるとは思っていなかったのだ

互換ベーシックの著作権侵害を問うべきか?
パソコン創世記(149) 
西和彦にとって、PC市場に新しい勢力が出てくることは歓迎すべきことだった――マイクロソフトから基本ソフトウエアを調達する限りにおいては

PC-9801の誕生
パソコン創世記(150) 
「PC-9801は16ビットのマシンのスタートラインを確かに通過した存在である」――『ASCII』の渡部信彦は、PC-9801の成功に確信を抱きはじめていた

「PC-9801対応」と明記してくれ
パソコン創世記(151) 
好調に滑り出したPC-9801の勢いは、徐々に陰りはじめていった。本来のターゲットである本格的なビジネス市場の開拓に弾みがつかなかったのだ

「キラーアプリケーション不足」という穴
パソコン創世記(152) 
PC-9801は、PCにとっての1-2-3に相当するキラーアプリケーションを欠いていた。このままでは、汎用ビジネスマシンというゴールに到達できない

「PC-9801は失速する」
パソコン創世記(153) 
PC-9801の最大の敵は、PC-9801の筺体の中に潜んでいた。N88-BASIC(86)だ。互換ベーシックこそが、打ち壊すべき強固なる壁だった


第2部 第5章 人ひとりのコンピュータは大型の亜流にあらず
2人の電子少年
パソコン創世記(154) 
パソコンの台頭は大きな金銭的見返りを生んだ。だがスティーブ・ウォズニアックと松本吉彦が愛したのはエレクトロニクスの魔法を演じることだけだった

電子少年ウォズニアック
パソコン創世記(155) 
1950年に生まれたスティーブ・ウォズニアックは、小学校6年生でアマチュア無線の資格を取り、同時期から科学展へさまざまな作品を出品し始めた

コンピュータ少年、プログラマになる
パソコン創世記(156) 
ホームステッドハイスクールでエレクトロニクスの授業を担当したジョン・マッカラムとの出会いは、ウォズニアックの傾斜にいっそう拍車をかけた

ジョブズ、ウォズニアックと出会う
パソコン創世記(157) 
ジョブズはエレクトロニクスに関して絶対の自信を持っていた。だが4つ年上のウォズニアックは、すでにコンピュータを自分の手で作り上げていた

ヒューレット・パッカード
パソコン創世記(158) 
デビット・パッカードとビル・ヒューレットが起こしたヒューレット・パッカードで、ウォズニアックは電卓を担当していた新製品開発事業部に配属された

ホームブルー・コンピュータ・クラブ
パソコン創世記(159) 
1975年3月5日、ホームブルー・コンピュータ・クラブの初めての集まりが持たれた。30名ほどが集まったその輪の中に、スティーブ・ウォズニアックもいた

アタリと「ポング」
パソコン創世記(160) 
アタリで働いていたジョブズに誘われたウォズニアックは、ポングの改良に興味を持った。だがこの時点では、HPを離れる気にはならなかった

マイクロコンピュータから延びる道筋
パソコン創世記(161) 
アルテア用にベーシックを書いたゲイツは、金銭を得る道を見つけた。一方、ウォズニアックにとっては、仲間たちの賞賛があればそれで充分だった

ボブ・アルブレヒトとベーシック
パソコン創世記(162) 
1962年春、コントロールデータ社のボブ・アルブレヒトに、ある依頼が舞い込んできた。学生を対象に、コンピュータに関する講演をしてほしいという

ピープルズ・コンピュータ・カンパニー
パソコン創世記(163) 
ボブ・アルブレヒトはコンピュータを人々に解放するため、1972年秋、『ピープルズ・コンピュータ・カンパニー(PCC)』という雑誌を発行しはじめた

タイニーベーシックを自作するホビイストたち
パソコン創世記(164) 
ディック・ホイップルとジョン・アーノルドが作った拡張タイニーベーシックを『PCC』に載せると、バグ修正に関する手紙が読者から何通も寄せられた

「ホビイストへの公開状」
パソコン創世記(165) 
ビル・ゲイツの「ホビイストへの公開状」は騒動を巻き起こした。ジム・ウォーレンはこれを、ソフトウェアの空白という構造が生み出した現象ととらえた

ソフトウェアの空白を埋める共棲
パソコン創世記(166) 
ウォーレンは『DDJ』の取り扱うテーマをソフトウェアの幅広い分野に拡張し、ソフトウェアの空白を埋める共棲の拠点として守り続けたいと考えた

アップルコンピュータの誕生
パソコン創世記(167) 
1976年、ジョブズはウォズニアックを説得し、基板を売るビジネスに共同で取り組むことを納得させた。彼らの基板はアップルI と名付けられた

ポール・テレル
パソコン創世記(168) 
パーソナルコンピュータの販売店の走りとなったバイトショップの経営者、ポール・テレルは、50台のアップルI を1台約500ドルで注文した

ウォズニアック、カラーグラフィックスに挑む
パソコン創世記(169) 
ジョブズがアップルI 製品化に向けて奮闘を続ける一方で、ウォズニアックは自分の6502マシンにカラーグラフィックスの機能を持たせようとしていた

1977年、アップルII デビュー
パソコン創世記(170) 
1977年4月16日、第1回ウェスト・コースト・コンピュータ・フェアーにおいて、アイボリーのプラスチックケースに収まったアップルII はデビューを果たした

もう1人の電子少年、伊勢崎に生まれる
パソコン創世記(171) 
松本吉彦は1953年10月、群馬県伊勢崎市に生まれた。小学校2年のころから真空管式のラジオ作りに取り組み始め、中学では科学クラブに入った

SF小説、ラッセル、テレビカメラ
パソコン創世記(172) 
1969年、西村昭義はテレビカメラを手作りするための連載を『CQ ham radio』で始めた。松本吉彦はその連載に、再び挑戦への意欲を刺激されていた

「拝啓 JA1BUD西村昭義様」
パソコン創世記(173) 
高校1年の夏から1年間、松本はテレビカメラ作りに没頭した。高校2年の8月、ついに完成させた松本は、その感動を伝えるため、西村に手紙を書いた

エレクトロニクスの天才
パソコン創世記(174) 
高校時代、エレクトロニクスの天才と呼ばれた松本は1冊の本と出合い、コンピュータを本当に理解するためのステップを思い浮かべられるようになった

アナログからデジタルへの跳躍
パソコン創世記(175) 
半導体産業は、集積回路の中にCPUを閉じ込めてしまった。アナログ1本でここまで来た松本は、ブラックボックス化した集積回路に恐れを抱いていた

日本のパソコンをリードした2人の研究者
パソコン創世記(176) 
東京電機大学助教授、安田寿明。東京大学大型計算機センター助教授、石田晴久。2人は生まれたばかりのマイクロコンピュータに飛びついた

MYCOM-4
パソコン創世記(177) 
松本は「マイクロコンピュータを理解できるだろうか」という不安を押しのけ、日本電気製のμCOM-4を使い、自らのマシン「MYCOM-4」を製作した

マイクロコンピュータの中身を探る連載
パソコン創世記(178) 
マイクロコンピュータを一から冷静に学ぶため、松本は重厚な新連載を始めた。読者からの記事に対するすさまじい反響は松本の多忙さに拍車をかけた

「マイコンの世界」、2人の若きタレント
パソコン創世記(179) 
1978年の夏、松本は毎日新聞の取材を受けた。「マイコンの世界」と題したその企画は、松本を西和彦と並べて「マイコン以降派1期生」と紹介した

西和彦、松本吉彦を誘う
パソコン創世記(180) 
西和彦が切り出した用件は、松本吉彦のまったく予想していないものだった。「僕と一緒にやらないか。新会社で、一緒に日本を変えていかへんか」

東大版タイニーベーシック
パソコン創世記(181) 
石田晴久が取り寄せたパロアルト版のタイニーベーシックは、博士課程2年生だった小野芳彦によって改良の手を加えられ、『ASCII』に掲載された

トム・ピットマン
パソコン創世記(182) 
トム・ピットマンは、生まれたてのマイクロコンピュータにもっとも素早く反応した1人だった。彼は、ソフトウェアの空白が残されていることを意識していた

「ちっぽけコンピュータ社」
パソコン創世記(183) 
パーソナルコンピュータ向けに、質の高い低価格のソフトウェアを提供することを目指して、トム・ピットマンは「ちっぽけコンピュータ社」を設立した

ベーシックのいくつもの選択肢
パソコン創世記(184) 
6800用のタイニーベーシックはちっぽけコンピュータ社のものが主流となり、公開されたものは姿を消した。安田寿明は、この空白を埋めようと考えた

ベーシックの標準、OSの標準
パソコン創世記(185) 
パーソナルコンピュータの生態系全体が急速に成長するのを見てきた西和彦は、ベーシックの標準、OSの標準の可能性を確信していた

テレビカナタイプ
パソコン創世記(186) 
「結局、自分はセールスマンだったのではないか」。何かを作ることに飢えていた松本の元に、黒崎義浩から協力依頼の連絡が届いた

パソコンは大型のエピゴーネンにあらず
パソコン創世記(187) 
大型コンピュータは、人間が機械の都合に合わせていた。だがマイクロコンピュータは、人の都合に合わせたコンピュータ文化を作り始めたのでは?

日本マイクロハード
パソコン創世記(188) 
西和彦は、仲間と「日本マイクロハード」社を設立した松本吉彦に、アップルII の増設スロットに差し込んで使うCP/Mボードが作れないかと打診した

独自技術を盛り込もうとするソニーの挑戦
パソコン創世記(189) 
3.5インチフロッピーや、増設ボードとスロットの形状、独自のベーシックなど、ソニーは独自技術を盛り込む道を選んだ。そこにはCP/Mへの信頼があった

MS-DOSの衝撃
パソコン創世記(190) 
1981年、IBMはマイクロソフトのMS-DOSを搭載したマシンを発表。CP/Mでアメリカ市場に乗り込もうとしたソニーは、IBMのこの選択に衝撃を受けた

ベーシックに閉じこもるか、OSに進むか
パソコン創世記(191) 
CP/MやMS-DOSはグラフィックス関連機能を備えていなかった。ホビイストたちの「グラフィックスと遊びたい」という欲求を埋めたのは、ベーシックだった

人の心、コンピュータ、インターフェイス
パソコン創世記(192) 
1982年に開催された「パーソナルコンピュータフォーラム」には、業界のめぼしいキーマンが軒並み顔をそろえていた。テーマは「親しみやすさとは何か」

パーソナル・ダイナミック・メディアへの挑戦
パソコン創世記(193) 
アップルがアルトの子供を2つ開発しているという情報を得た後藤富雄は、パーソナルコンピュータの変革の波が着実に近づいていることを意識した


第2部 第6章 魂の兄弟、日電版アルト開発計画に集う
柔らかなコンピュータ技術
パソコン創世記(194) 
西和彦によるアルトの子供の開発計画は、松本吉彦を再びパソコンに向かわせた精神の支柱に、肉を付け、血を通わせるための作業となった

Windowsプロジェクト
パソコン創世記(195) 
日本電気に参加を求めることを前提に準備を進めていたアルトの子供を、西和彦はWindowsの先駆けとなるマシンにしようと考えた

ハードウェアの中核はASICに凝縮せよ
パソコン創世記(196) 
一体型のカラー版マッキントッシュという目標を示された時点で、松本は基板の小型化の必要性を認識し、即座に進むべき道を選び取っていた

PC-100と、新規開発すべきASICたち
パソコン創世記(197) 
ASICを積極的に活用するという松本の提案は生き残った。マイクロハードの開発チームは、新規に開発すべきASICを洗い出していった

グラフィックス強化と縦横兼用ディスプレイ
パソコン創世記(198) 
新しいマシンのシステム設計は、快適な操作環境を実現するために、グラフィックスの処理能力を徹底的に強化し、磨きをかける点に重きを置いた

PC-9801が投げかけた疑問符と衝撃
パソコン創世記(199) 
PC-9801を初めて見た松本吉彦は、IBM PCとの類似性に驚きを禁じえなかった。それは松本にとって、すでに決別した過去だったのだ

マック、リサ、日本電気版アルトの開発競争
パソコン創世記(200) 
ASIC開発のめどが立ち、ハードウェアの開発が胸突き八丁を越えた1983年1月、アップルは2頭立てのアルトの子供のうち、リサの発表を行った

マイクロソフトの苦闘
パソコン創世記(201) 
マイクロソフトのインターフェイスマネージャ開発チームは、与えられた開発目標とPC上で使うという条件の板挟みとなって苦闘を余儀なくされた

「GUIを生かしたアプリケーションを!」
パソコン創世記(202) 
視覚的なアプリケーションを準備せよ、というミッションを与えられた古川享は、絶望的なスケジュールを前にして、まずマルチプランのバンドルを決めた

「ディスクベーシックの繁栄」という壁
パソコン創世記(203) 
MS-DOS向け日本語ワードプロセッサの調達が難航する中で、古川は「ディスクベーシックが再びOSを封じ込めてしまうのでは」と恐れはじめていた

孫正義と松田辰夫
パソコン創世記(204) 
コンサルタントを目指していた松田辰夫は、経営総合研究所で孫正義と出会った。松田は、孫が起こすというソフトウェア流通の会社に興味を持った

日本ソフトバンク『Oh! PC』とPC-9801
パソコン創世記(205) 
技術室長という肩書きで、ソフトバンクの雑誌を技術面から統括していた松田は、『Oh! PC』でPC-9801の特長を生かしたゲームのコンテストを行った

PC-9801をOSマシンに変身させるシナリオ
パソコン創世記(206) 
PC-9801を、ユーザーが意識しないうちにMS-DOSマシンに変身させることができてはじめて勝利を確定できる。浜田はそのためのシナリオを練り始めた

MS-DOS無償提供という「奇策」
パソコン創世記(207) 
MS-DOSをアプリケーションにバンドルしたい、と西和彦に打診した浜田は、彼の返答に虚を突かれた。西は「いっさい対価を求めない」と即答したのだ

IBMへの信頼
パソコン創世記(208) 
「今後はOSだ。それもMS-DOSに対応したアプリケーションの開発を、徹底して推し進めていく」。浜田のその宣言は、早水潔にとっていぶかしかった

ジャストシステムの誕生
パソコン創世記(209) 
ジャストシステムの浮川と名乗る女性からの電話を古川が受けたのは、GUIベースのワードプロセッサが宙に浮いていた1983年の早春の休日だった

受託ではなく「漢字システム」で勝負を
パソコン創世記(210) 
徳島を拠点としている限り、受託では限界がある。特色のある技術を身につけて、全国区で勝負するしか道はない。浮川が選んだのは「日本語」だった

日本語ワードプロセッサを開発し、全国区へ
パソコン創世記(211) 
浮川たちはパソコン用の日本語ワードプロセッサを開発し、全国区への飛躍の足がかりとしようと決意した。ターゲットは日本電気のPC-9801に据えた

GUIへの突破口
パソコン創世記(212) 
笹渕正直は、マイクロソフト本社で緑色のボタンの付いたマウスと出合った。このちっぽけな装置が、さまざまな問題への切り札になると笹渕は考えた

「僕たちのワープロはきっと認められる」
パソコン創世記(213) 
「みんながジャストシステムのワープロを使ってくれる日が、きっとくるよ」。赤坂プリンスホテルの最上階のレストランで、浮川和宣はそうつぶやいた

藤井展之とコンピュータグラフィックス
パソコン創世記(214) 
1983年7月、後藤富雄は「コンピュータグラフィックスに入れ込んでいる面白い大阪のグループがある」と紹介されて、藤井展之からの電話を受けた

竹松昇と魂の兄弟たち
パソコン創世記(215) 
PC-100のプロトタイプを見たハッカーの1人、竹松昇は、そのマシンを作ったのが、彼らハッカーの「魂の兄弟たち」であることを瞬時に理解した

アラン・ケイの論文が残したもの
パソコン創世記(216) 
アラン・ケイの論文を読んで竹松は感動を覚えた。これまでのすべては、ダイナブックに向けて走り出すための予行演習だったのでは、と竹松は考えた

PC-9801F
パソコン創世記(217) 
1983年10月、日本電気は16ビットのパーソナルコンピュータ、2機種の販売を開始した。PC-100と、PC-9801シリーズの新機種、PC-9801Fだった

PC-100とダイナウェア
パソコン創世記(218) 
藤井はPC-100向けアプリケーション開発の本格化に備え、株式会社を設立。社名は、ダイナブックを実現するためのソフトウェア=ダイナウェアとした

マッキントッシュへの共感
パソコン創世記(219) 
1984年1月、アップルはマッキントッシュを発表した。PC-100向けのお絵かきソフトを開発していた竹松は、マッキントッシュを見て深い共感を覚えた

PC-9801とPC-100の緊張関係
パソコン創世記(220) 
大内淳義は情報処理のPC-9801と電子デバイスのPC-100の鋭い緊張関係に、社内抗争の兆しを感じとった。「これ以上進めば、調整が難しくなる」

パーソナルコンピュータ事業の主役交代
パソコン創世記(221) 
1983年12月5日、日本電気はパーソナルコンピュータ事業の組織変更を発表。主役は、PC-9801を立ち上げた浜田俊三に入れ替わっていた

浜田俊三、PC-100を前にして当惑する
パソコン創世記(222) 
PC-100は、使い勝手の改善やメディアとしての発展の可能性を積極的に評価しない限り、性能の劣った遅いマシンと見られかねない一面を持っていた

PC-9801シリーズのライバルたち
パソコン創世記(223) 
三菱電機のマルチ16、東芝のパソピア16、富士通のFM-16β。PC-100の命脈を断ったあとも、PC-9801が打倒するべき敵は社外に数多く控えていた

IBM PC/JXの挑戦を受ける
パソコン創世記(224) 
1984年10月、IBM PC/JXが発表された。「世界標準」を掲げてはいたものの、手本としたPCジュニアはアメリカ市場で苦闘を強いられていた

JXの大惨敗と、捨て身のDOS/Vという選択
パソコン創世記(225) 
JXの惨敗は日本IBMの手を完全に縮こまらせた。彼らがATの日本語化という最後の希望にかけて攻勢に転ずるのは、1990年10月にまでずれ込んだ

ジャストシステムの長男、jX-WORD太郎
パソコン創世記(226) 
1984年11月、ジャストシステムはJX向け日本語ワードプロセッサ「jX-WORD」を発表。翌1985年2月、PC-9801版の「jX-WORD太朗」の発売を開始した

一太郎とATOKの成功
パソコン創世記(227) 
1985年8月に発表された「一太郎」が、変換モジュール「ATOK」を他のアプリケーションでも利用できる構造を採用していた点は、高い評価を受けた

PC-9801の市場独占
パソコン創世記(228) 
MS-DOS上で、GUIを利用したプログラム資産を共有するために提示された選択肢は2つ。1つのマシンしか作らないか、1つのマシンしか使わないか

ダイナデスクとデスクトップパブリッシング
パソコン創世記(229) 
ダイナウェアが1984年に出荷を開始した日本語ワードプロセッサ「ダイナデスク」は、日本語の文章を作るという従来の枠から大きく踏み出していた

マッキントッシュとページメーカー
パソコン創世記(230) 
デスクトップパブリッシングがマッキントッシュの突破口を開いた。ポール・ブレイナードのページメーカーは、マックにとってのビジカルクとなった

歴史の歯車は回り続ける
パソコン創世記(231) 
アップル、ダイナウェア、ジャストシステム、日本電気。彼らは、コンピュータの歴史のある決定的な瞬間において志を共有した魂の兄弟たちだった


第2部 エピローグ 魂の兄弟、再び集う
西和彦とビル・ゲイツの別れ
パソコン創世記(232) 
1986年、マイクロソフトはアスキーとの独占代理店契約を解消し、日本法人のマイクロソフト株式会社を設立。日本法人の社長には、古川享が就任した

フィリップ・D・エストリッジ
パソコン創世記(233) 
フィリップ・D・エストリッジをリーダーとしたIBMにおけるPC開発物語を読むうちに、渡辺和也の脳裏には、10年前のさまざまな情景が浮かんでいった

ハードウェアからソフトウェアへ
パソコン創世記(234) 
大型コンピュータの基本ソフト一筋だった水野幸男は、コンピュータの価値がハードウェアからソフトウェアへと移行してきたことを強く意識していた

オープンアーキテクチャの夢
パソコン創世記(235) 
浜田俊三の後任、高山由はPC-9801を売りに売った。一方、高山の上司の渡辺和也は、オープンアーキテクチャの夢と現実との間で悩み続けた

Windowsの長い道のり
パソコン創世記(236) 
1983年11月、マイクロソフトはWindowsを発表、翌年5月に出荷を開始するとした。だが実際には、一般ユーザー向けは1985年11月までずれ込んだ

Windows 1.0/2.0の苦境
パソコン創世記(237) 
Windows 1.0の操作環境はマックに比べ劣っていた。GUIに引かれたユーザーはマックを、それ以外はMS-DOSを使う時代は、1980年代いっぱい続いた

ビル・ゲイツと西和彦の、遠い日の約束
パソコン創世記(238) 
遠い日の約束は果たされた。万能の夢の器たるコンピュータは、人間の想像力がつきぬ限り進化の歩みを止めることはない。『パソコン創世記』完結

 

自分戦略研究所、フォーラム化のお知らせ

@IT自分戦略研究所は2014年2月、@ITのフォーラムになりました。

現在ご覧いただいている記事は、既掲載記事をアーカイブ化したものです。新着記事は、 新しくなったトップページよりご覧ください。

これからも、@IT自分戦略研究所をよろしくお願いいたします。