TK-80上の革命
富田倫生
2009/9/3
本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、日本のパソコン業界黎明期に活躍したさまざまなヒーローを取り上げています。普段は触れる機会の少ない日本のIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部) |
本連載は『パソコン創世記』の著者である富田倫生氏の許可を得て公開しています。「青空文庫」版のテキストファイル(2003年1月16日最終更新)が底本です。「青空文庫収録ファイルの取り扱い規準」に則り、表記の一部を@ITの校正ルールに沿って直しています。例)全角英数字⇒半角英数字、コンピューター⇒コンピュータ など |
渡辺の困惑をよそに、TK-80は一人歩きを始めた。
ユーザーたちはさまざまなクラブを作りはじめ、マイコン雑誌上で、あるいはクラブの席上で自慢のプログラム、自慢の回路を発表しはじめる。
カセットデッキとのインターフェイス回路を組んで、カセットを外部記憶装置として使う。家庭用テレビとのインターフェイスを自作して、テレビを出力装置として使いはじめる人がいる。TK-80に付いている電卓のようなキーではなく、タイプライターに使われているようなフルキーボードを付ける人がいる。
中でも目立ったのが、ごく小さな記憶容量しか必要としない翻訳プログラムを使い、高級言語、べーシックをTK-80で使おうとする動きである。
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TK-80に標準装備されているRAM(ユーザーが利用できるメモリー)、わずか512バイトでは、あまりメモリーをくわないようにコンパクトに作られた翻訳プログラムでもさすがに収まりようもない。そこでTK-80に手を加えてRAMを増設し、翻訳プログラムをRAMに読み込んできて、機械語ではなくべーシックでTK-80を使おうというのである。
創刊2号目の『ASCII』1977(昭和52)年8月号には、わずか2Kバイト(それでもTK-80に標準装備されたものの4倍ではあるが)のメモリー空間に収まってしまう超小型版翻訳プログラム、タイニーベーシックの記事が紹介されている。さらに翌9月号には、TK-80でタイニーベーシックを走らせるための記事が登場し、そうした記事をたよりに、多くのユーザーが自分の持っているTK-80をベーシックの使えるコンピュータに改造しようと試みはじめた。
予想もしえない事件は、別の場所でも起こった。
TK-80を発売する日電と、それを使うユーザーそのどちらにも属さない第3のグループ、サードパーティーが、TK-80に絡みはじめたのである。
スタートはTK-80の箱を開けたユーザーがまずためらうことになる、電源だった。もともとは日本電気とは何の関係もない企業が、この電源に目を付けた。TK-80の規格に合わせた電源を作り、「TK-80用」と銘打って売り出したのである。これが大いに受けた。
さらにTK-80と他の入出力機器をつなぐためのインターフェイス回路、増設メモリーなどがつぎつぎに発売されていった。
もはやユーザーは、マイクロコンピュータを理解するのでも、その使い道に頭を悩ますのでもなく、超小型のコンピュータシステムとしてTK-80をとらえようとしていた。そのためにベーシックを走らせ、他の入出力機器とつないで、TK-80を使いやすいコンピュータに練り上げようとしていた。渡辺たちは日に日に、TK-80タイプのワンボードマイコンの上で、革命が起こりつつあるのを実感していた。アメリカで生まれつつあるという個人用コンピュータなる代物が確かに日本でも姿を現しはじめ、その上で新しい文化が築かれようとする大きな流れを、肌に感じていた。
マイクロコンピュータの販売、そしてパーソナルコンピュータ――。
渡辺の心の中で、シーソーはゆっくりと傾きはじめた。足音が社内に大きく響かぬよう細心の注意を払いながら、渡辺は一人歩きを始めたTK-80を少しだけ追いかけてみることを決意した。
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