もう1つのベーシック
富田倫生
2009/9/7
本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、日本のパソコン業界黎明期に活躍したさまざまなヒーローを取り上げています。普段は触れる機会の少ない日本のIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部) |
本連載は『パソコン創世記』の著者である富田倫生氏の許可を得て公開しています。「青空文庫」版のテキストファイル(2003年1月16日最終更新)が底本です。「青空文庫収録ファイルの取り扱い規準」に則り、表記の一部を@ITの校正ルールに沿って直しています。例)全角英数字⇒半角英数字、コンピューター⇒コンピュータ など |
「グッドモーニング」と声をかけてアパートの一室を訪ねると、いかにも学生らしい2人が頭をかきながらベッドから起き出してきた。
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マイクロコンピュータ絡みの仕事を始めてから、ひげ面や学生らしさの抜けない連中との付き合いにも、渡辺和也は慣れっこになっていた。電子回路によって人間の声に近い音を作り、機械にしゃべらせようという音声合成の研究を行っているこのベンチャービジネスのスタッフ2人も、スタンフォード大学を卒業したばかりだという。
1978(昭和53)年。
TK-80BSを売り出したあとも、マイコン販売部の仕事がマイクロコンピュータの販売である事情にはいささかの変化もない。そしてこのときも渡辺はアメリカに渡り、マイクロコンピュータの新しい使い道のヒントをつかもうとしていたのである。
最初は気付かなかったけれど、部屋の中にはもう1人若者がいた。黒ぶちの眼鏡に、髪はやはり、肩までとどくほどもある。背はかなり高いが、顔付きは東洋系。どうやら日本人らしい。
「東京からおいでですか」と声をかけると、やはり日本人である。
西和彦と名乗り、マイコン雑誌の『ASCII』をやっている者だと付け加えた。『ASCII』なら、渡辺もよく知っている。アメリカでのパーソナルコンピュータの状況を見るために、しばらくこちらを歩き回っているのだという。
西との会話はここではそれっきりになったが、別れぎわに「東京でまたお会いしましょう」と声をかけた。
東京に帰って1カ月後、西和彦から連絡があった。是非会いたいという。
神戸生まれの西は、関西弁のアクセントを交えながら熱っぽく語りはじめた。
「これからは絶対に、スイッチを入れたとたんに高級言語でプログラミングできるパーソナルコンピュータの時代ですよ。その中でも、ベーシックが主流になることは間違いない。そこでマークしなくちゃいけないのが、マイクロソフトというソフト会社、そこの親分のビル・ゲイツという男です」
西の説明によれば、1年前の「パーソナルコンピュータ元年」に発売された3種類のマシンのいずれもが、ビル・ゲイツの開発したベーシックを使うようになったのだという。当初TRS-80とアップルIIは自社のベーシックを使っていたが、その後マイクロソフト製も搭載することになり、アメリカではこれが本命になることは間違いないらしい。
ビル・ゲイツ――。
1955(昭和30)年10月、アメリカ北西部、カナダとの国境に近いシアトルに生まれた。小中高と持ち上がりの名門校、レイクサイドスクールに学んだゲイツは、中学2年のときコンピュータと出会うことになる。授業でコンピュータの基礎を学ぶやたちまちのうちに虜になり、1年分のコンピュータ演習用の予算を、2週間で使いきってしまったという。
以降、ゲイツの中学、高校生活はコンピュータ一色。コンピュータがいじりたい一心でプログラミングのアルバイトを始め、天才ぶりを発揮してひっぱりだことなり、高校時代には1年間休学して仕事に没頭している。
1973年6月、レイクサイドスクールを卒業したゲイツは、その年の9月、ハーバード大学に進む。専攻は法律学としていたが、数学、物理学、コンピュータ科学では、大学院の課程をとることを許された。大学のコンピュータセンターで長い時間を過ごしていたゲイツだったが、結局ハーバードとは1年あまりで実質的に縁が切れた。
そのきっかけを作ったのは、『ポピュラーエレクトロニクス』誌1975年1月号に掲載されていた、マイコンのシステムだった。電卓のキットを発売していたMITS社のエド・ロバーツは、インテル社から発売されたマイクロコンピュータ、i8080を使って、超小型のコンピュータシステムを作ろうと思いたった。入出力機器はおなじみのテレタイプである。
ロバーツのまとめた製作記事は大きな反響を呼び、アルテア8800と名付けたキットは、MITSのヒット商品となる。ビル・ゲイツもこのキットに目を付けた。ただし彼は、MITSにキットの注文をする代わり、雑誌に掲載されていた配線図とマイクロコンピュータの仕様書をたよりに、大型計算機用に開発されていたベーシックの翻訳プログラムをコンパクトに作り変え、アルテアで使える形にまとめ上げたのである。メモリー容量で見ればタイニーベーシックの2倍、4Kバイトを必要とするゲイツのベーシックには、多様な機能が見事に押し込められていた。MITSはビル・ゲイツの言語を、アルテアベーシックとして販売することを引き受けた。ゲイツはさらに機能を拡張した8Kバイト版、16Kバイト版の開発に取り組み、マイクロソフト社を起こして大学を去った。
一方日電の社内でも、TK-80BSを担当した土岐泰之によって、ベーシックの開発はその後も続けられていた。TK-80BSではわずかに2Kバイトに収まるように作っていたものを、もう少し記憶容量の制限を緩め、その代わり機能を高度化し高速で動くプログラムの開発が進められていたのである。
西和彦の力強い説明を聞くうち、渡辺和也はビル・ゲイツなる人物、そしてマイクロソフトに興味を抱きはじめた。
<土岐のベーシックはそれとして、ともかく一度会ってみるか>
西和彦と別れたあと、渡辺は心の中でそうつぶやいた。
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