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パソコン創世記


鶏が鶏として生きる

富田倫生
2009/10/14

「電話工事の仕事をやめた」へ

本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、日本のパソコン業界黎明期に活躍したさまざまなヒーローを取り上げています。普段は触れる機会の少ない日本のIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部)

本連載は『パソコン創世記』の著者である富田倫生氏の許可を得て公開しています。「青空文庫」版のテキストファイル(2003年1月16日最終更新)が底本です。「青空文庫収録ファイルの取り扱い規準」に則り、表記の一部を@ITの校正ルールに沿って直しています。例)全角英数字⇒半角英数字、コンピューター⇒コンピュータ など

 全国に30か所あまりある実顕地のうち、春日山実顕地、北海道別海実顕地、そしてタケシたちの参画した豊里実顕地の3つは、群を抜いて大規模であった。

 春日山から東へ車で40分、近畿自動車道伊勢線に沿った豊里実顕地――。

 1969(昭和44)年に設立した当初は、草ぼうぼうの荒れ地にわずか10人ばかりが住みついただけだったものが、タケシが参画した時点では、400人が一体生活を送る大集落となっていた。

 7ヘクタールほどの敷地には、鶏舎や牛舎、豚舎が立ち並び、ここで飼っている家畜をさばく肉処理工場、飼料の配合工場、実顕地内の建物を自前でつくるための木工場、鉄工場も用意されている。ここで暮らす人に割り当てられるアパート式の住まい、さらに食堂や共同洗濯場、5歳以下の子供を昼間預ける育児舎、6歳以上の子供が共同生活を送る学育舎などもこの敷地内にある。敷地外には借地も含めて約30ヘクタールの農地があり、野菜類や牧草などを栽培している。豊里では米作りは行っていないが、これも他の実顕地で作られたものが使われる。

 「われひとと共に繁栄せん」と大書した看板に出迎えられたタケシとヨーコ、そして2人の子供は、この日、40万円ほど残っていたたくわえと自らとを豊里に「放」した。

 豊里での最初の夜は、外から訪れる人のために用意された客間で過ごした。

 翌日、6畳1間の住まいを割り振られた。

 どのような仕事を選ぶかは、総務の人事担当者に一任した。タケシは建設部に、ヨーコは肉処理部に配属された。

 昼間はヒカルとタエコを育児舎に預けて働き、夜は6畳1間に4人が集まる生活が始まった。

 豊里の朝は早い。

 建設部の人たちは、午前7時ごろには働きはじめる。だがタケシは、彼らよりももう少し早く起きていた。毎朝5時に起きて仲間より早く働きはじめることを、豊里での生活の取りあえずのテーマにしたのである。

 朝の早い肉処理の仕事についたヨーコも、タケシが目覚めるころに起き上がり、仕事場に向かった。

 ヨーコのさばくヤマギシの鶏の肉は、固く引きしまっている。ブロイラーのたよりない柔らかさとは遠く、歯ごたえがあり味が深い。

 山岸会結成のきっかけとなった山岸式養鶏法、その要諦は「鶏が鶏として生きる」道を探るところにあるという。

 山岸の鶏は、自らの足で自由に歩き回ることができる。

 現在の養鶏の常識では、鶏を歩き回らせることはただの飼料のむだである。ブロイラーは光の射し込まない真っ暗な鶏舎にぎゅうぎゅう詰めに「密飼い」され、運動不足によって太らせられる。採卵用の鶏は、針金で仕切られたケージに1、2羽ずつ押し込められる。

 それに対しヤマギシでは、ブロイラーも採卵鶏も、放し飼いに近い「平飼い」にされる。鶏舎は25平方メートルずつに金網で区切られ、採卵鶏では1区画に100羽あまりの雌と4、5羽の雄を入れる。傲然と君臨する雄の胸の羽は、交尾を繰り返すためにすり切れている。

 ヤマギシの卵は有精卵であり、殻は固く黄味にははりがある。

 鶏舎の床にはワラが敷き詰められており、フンも積もるにまかされている。この保温効果により、暖房の必要がない。山岸式養鶏の別名は「ナマクラ養鶏」である。

 こうして生産された有精卵、食肉、牛乳、野菜などを、実顕地外での常識でいう「消費者」に「販売」することを、ヤマギシでは「活用者」に「供給」するという。これもまた、その他のヤマギシ語と同様、単なる言葉の言い換えではない。

 ものを「販売」する立場にあるものの究極の狙いは、どんな美辞をもって飾り立てたところで、とどのつまりは「いかにコストを抑え、それをいかに高く売るか」につきよう。逆に消費者の本音は「いかによいものをいかに安く買うか」である。また、その人が裕福であるなら、活用できる量には限りがあっても、金の続く限りはむだな消費を続けることはできる。

 そうした販売者と消費者との関係を脱し、「われ、ひとと共に繁栄せん」とする会旨を現実化したものとして、ヤマギシでは供給者と活用者の関係を位置づける。

 ヤマギシの生産物は、一般の流通ルートには流されない。全国に20数か所設けられた実顕地生産物供給所にまとめて輸送され、そこから活用者グループのまとめ役にとどけられ、最後に活用者1人ひとりの手に渡る。供給活動もまた、Z革命の一環である。

 早朝から働きはじめ、一度目の食事は午前11時半ごろ、愛和館と名付けられた食堂でとる。実顕地では、1日を2食で暮らす。食事を終えてから午後いっぱい、さらに陽が沈んでからも、タケシは働き続けていた。ほとんど毎日、夜8時ごろまで、1日約14時間あまりを働き通していた。

 実顕地の人々は勤勉である。

 働くよう強制されるわけではなく、事実、中にはほとんど働かない人もいるが、たいていの人は長時間の労働をこなす。しかしその中でも、タケシの働きぶりはすさまじかった。

 灼熱化した脳の神経回路は、タケシにすさまじい昂揚感を与えていた。

 ヤマギシズムによる自己変革、ヨーコとの関係の回復の鍵が、仕事の向こう側に見えるような気がしていた。とにもかくにも働き続けることで、その鍵をつかもうとしていた。

 その昂揚感の中で、タケシは考えはじめていた。

 熱を帯びた神経回路を、すさまじい勢いでパルスがめぐりはじめた。そのリズムに合わせタケシはなおも働き続けた。

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