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パソコン創世記
原爆による自滅から人類を救う道具の夢


電子式数値積分計算機=「ENIAC」

富田倫生
2009/11/6

「〈思考のおもむくままに〉情報を取り出せる装置」へ

本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、日本のパソコン業界黎明期に活躍したさまざまなヒーローを取り上げています。普段は触れる機会の少ない日本のIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部)

本連載は『パソコン創世記』の著者である富田倫生氏の許可を得て公開しています。「青空文庫」版のテキストファイル(2003年1月16日最終更新)が底本です。「青空文庫収録ファイルの取り扱い規準」に則り、表記の一部を@ITの校正ルールに沿って直しています。例)全角英数字⇒半角英数字、コンピューター⇒コンピュータ など

 そう考えたブッシュは、記録をとり、情報を保存し、参照するための強力な新しい道具を思い描いた。第2次世界大戦中に、大砲の弾道計算を自動化するために開発されたENIAC★は、電子計算機の可能性を示してさまざまなプロジェクトにスタートのきっかけを与えた。このマシンが動きはじめる前に「思考のおもむくままに」をまとめたブッシュは、こうした道具をコンピュータを使って作るとはっきり意識してはいなかった。だが光を電気に変えることで電気的にものを〈見る〉ことを可能にする光電セルや写真技術、音声タイプライターなどを統計処理分野で使われているパンチ・カード・システムのような情報処理機械と組み合わせることで、広大な知識と経験の海を発想のおもむくままに滑る道具が作れるだろうとブッシュは予測した。

★アメリカ陸軍の依頼を受けて、ペンシルベニア大学の電気工学科、ムーアスクールが開発した電子計算機。ENIACは、電子式数値積分計算機を意味する「Electronic Numerical Integrator and Computer」の略。撃ち出した砲弾が大気の条件によってどんな影響を受け、初速や発射角度などに応じてどのような軌跡を描いてどこに着弾するかを示す弾道数表作りを高速化する目的で、1943年に開発が始まった。だが戦時中には完成にこぎ着けられず、戦後の1946年2月になって公表された。

 ENIACはきわめて早い段階の実用機として注目されるべきマシンではあるが、コンピュータを支える技術は同機にいたるまでにも厚く積み重ねられており、またその後のコンピュータの基本原理となったプログラム内蔵方式は、ENIACには採用されていなかった。

 科学の勃興は計算処理への要求を増大させ、さまざまな計算機の提案を生み出してきた。資本主義の形成に伴って拡大するビジネスの世界も、会計処理を迅速にこなす計算機を求めた。また10年ごとの国勢調査を憲法で規定したアメリカでは、大量の移民を引き受ける中で統計処理の機械化の要求が増大し、1890年の調査データの処理には、ヘルマン・ホレリスによって開発された統計機械が利用された。軍事もまた、計算の高速化に大きな圧力をかけ続けた。

 アメリカ陸軍がメリーランド州アバディーンに設立した弾道研究所は、数学者を動員し、ヴァニーヴァー・ブッシュの開発した微分解析機などの計算機を駆使して弾道数表の充実に努めていった。1939年に第2次世界大戦が勃発して以降の戦時体制下、弾道研究所では微分解析機の改良が進められていったが、もう1方で研究所は新しい弾道計算装置の開発をペンシルベニア大学に打診した。ムーアスクール助教授のジョン・W・モークリーは、「電子式微分解析機を開発すれば弾道数表作りに要する期間を大幅に短縮できる」との構想を示し、1943年4月には大学院生J・プレスパー・エッカートとともに、この装置に関する提案書をまとめた。陸軍との契約は翌5月に行われ、ENIACの開発が始まった。

 電子式のスイッチとして機能する真空管を使って、ともかく微分解析機に代わる計算機を作るとして開発されたENIACは、基本的なアイディアは既存の計算機から借りながら、資金にまかせて強引に電子化を推し進めるというアプローチをとった。その結果、ENIACは1万8800本の真空管、17万個の抵抗、1万個のコンデンサー、1500個のリレー、数千のスイッチと数百のプラグを組み合わせ、50万か所をはんだ付けしたモンスターとなった。開発にあたったスタッフは長期間にわたって昼夜兼行で作業にあたったが、膨大な接点に紛れ込んだ不良箇所が彼らの足を引っ張った。

 完成したENIACは、毎秒5000回の加減算をこなし、当時の計算機をはるかに上回る処理能力を見せつけた。一方ハーバード大学とIBMは、従来の統計・会計機の技術をもとに、指定された計算手順に従って機能する汎用自動計算機「Mark」を1944年に完成させていた。紙テープに記録した命令を1つ読んでは実行し、次の命令を再びテープから読む方式を採用していた「Mark」では、処理速度は読みとりの際の機械的な動作によって制限されていた。

 それに対しENIACでは、プラグにコードを差し込んでいくことで計算の手順をセットするようになっており、電子化による高速化のメリットがそのまま生かせるように工夫されていた。ただし計算の手順を変更しようとすれば、ENIACではそのたびに配線をすべてやりなおさざるをえなかった。計算自体は高速化できても、ENIACには配線に手間がかかるという問題点が残されていた。

 ハンガリー生まれのユダヤ人数学者で、ヒットラーのドイツを逃れてプリンストン大学に移っていたジョン・フォン・ノイマンは、マンハッタン計画に貢献するとともに、コンピュータの基本原理の確立においても決定的な役割を演じた。弾道研究所はENIACの完成以前から、より強力な計算機を開発するようムーアスクールに要請していたが、この次期計画は弾道研究所の顧問でもあったフォン・ノイマンの構想にもとづいて進められることになった。

 EDVACと名付けられた次のマシンに関する、1945年6月にまとめられた最初の提案書で、フォン・ノイマンは「電子的な記憶装置に収めた計算手順を読み出して実行する」プログラム内蔵方式を提案した。フォン・ノイマンとエッカートが協力して進めることになったEDVACの開発計画は、両者の発想の食い違いもあって大幅に遅れ、同方式の1号機はイギリス、ケンブリッジ大学のモーリス・V・ウィルクスによって1949年5月に作り上げられたEDSACとなった。

 現在のコンピュータの基本技術は第2次世界大戦の終結間近に確立され、この戦いは科学技術による人類の自滅を暗示させる原子爆弾の炸裂に彩られて終わった。そしてコンピュータがその進化を加速させるだろう科学が生じさせかねない破滅を回避する小さな希望のアイディアもまた、この時点で誕生している。

 始まりのその時点にすべての可能性が内包されているという教訓は、コンピュータに関しても当てはまる。

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