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パソコン創世記
ビル・ゲイツ アルテアにベーシックを書く

ポール・アレンとアルテア

富田倫生
2009/12/7

「13歳のビル・ゲイツ」へ

本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、日本のパソコン業界黎明期に活躍したさまざまなヒーローを取り上げています。普段は触れる機会の少ない日本のIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部)

本連載は『パソコン創世記』の著者である富田倫生氏の許可を得て公開しています。「青空文庫」版のテキストファイル(2003年1月16日最終更新)が底本です。「青空文庫収録ファイルの取り扱い規準」に則り、表記の一部を@ITの校正ルールに沿って直しています。例)全角英数字⇒半角英数字、コンピューター⇒コンピュータ など

 1972年の秋には、ポール・アレンが地元シアトルのワシントン州立大学に進んで、コンピュータ科学を専攻した。プログラミングの力をビジネスに生かせないものかと考えていたアレンは、高校在学中のゲイツを誘って道路の交通量に関するデータの解析を看板にかかげて、トラフォデータ社を設立した。

 道路に仕掛けられた測定装置の吐き出すデータを解析し、これにもとづいて信号の切り換え時間の最適化などに関するレポートを作るビジネスを目指した2人は、この年の4月にインテルが発表していた8008に目をつけた。

 データ処理のためのまともなコンピュータはとても手に入らないが、マイクロコンピュータの8008なら360ドルで買えた。

 ボーイング社のエンジニアに依頼して、2人は8008を使った超小型コンピュータを作ってもらった。だがプログラミングに必要なキーボードも、書いたプログラムを手直しするための編集ソフトもないこのマシンでは、効率よくソフトウエアを書くことなどできない。

 そこでアレンは、大学のPDP-10を使って8008の働きをそっくりそのままシミュレートするプログラムを書いた。ゲイツはPDP-10の上に仮想的に再現された8008を使って、交通データ解析プログラムの開発に取り組んだ。PDP-10にはまともな端末装置がつながっており、エディターと呼ばれる編集ソフトもそろっていた。ここで仕上げたプログラムを手持ちの8008マシンに読み込ませ、実際の処理だけをマイクロコンピュータのシステムでやらせることにした。

 トラフォデータは低料金と迅速な処理を謳い文句に、地方自治体に売り込みを図った。1974年春に連邦政府がデータ解析を無料で請け負うようになるまでに、トラフォデータはおよそ2万ドルを売り上げた。

 1973年の1月からは、2人は大手電機メーカーのTRW社でフルタイムのプログラマーとして働きはじめた。

 地域の電力使用量に対応して、水力発電所の発電量を自動的にコントロールするシステムの開発を地方自治体から請け負っていたTRWは、使用するPDP-10のシステムソフトウエアのバグに悩まされ、この環境に習熟したプログラマーを求めていた。

 大学に飽き飽きしていたアレンは、中退してこの申し出に飛び付いた。レイクサイドスクールの最終学年に達していたゲイツは、2学期を休学する許可を得てアレンの誘いに乗った。経験を積んだプロとの共同作業で、2人はいっそうプログラミングの技に磨きをかけた。

 4月に学校に帰り6月に卒業した時点で、ゲイツは再びTRWの仕事に戻った。

 だが秋からは、ハーバード大学に進むつもりでいた。

 かねてからアレンと話し合ってきたソフトウエアの会社を本格的に始める話にも心が惹かれたが、結局はひとまず進学する道を選んで東海岸のボストンに移った。専攻は一応、法律学としていたが、数学、物理学、コンピュータ科学に関しては、大学院の課程を取ることを許された。

 翌1974年の春、ポール・アレンはシアトルに戻ってトラフォデータの新しい仕事を探そうとしたが、究極のダンピングを行う連邦政府というライバルには抗しようがなかった。この年の夏、ゲイツはハネウェルでプログラムを組むことになり、アレンもボストンに合流してここで働く機会を得た。

 同年4月、インテルは3つ目のマイクロコンピュータとなる8080を発表し、2人がハネウェルで働きはじめたころには、エド・ロバーツがこれを使った組み立て式のキットコンピュータに会社の存続をかけようと心を決めていた。

 再び一緒に働くことになった相棒のゲイツを、すでに大学をけ飛ばしていたアレンは、会社を始めようと繰り返し口説いた。

 当初はコンピュータのハードウエアを作る会社を作ろうと考えたが、やがて自分たちのもっとも得意とするソフトウエアに絞ろうと決めた。だがゲイツにはその時点でも、大学を捨てて会社をスタートさせる決心がつかないでいた。

 アレンが『ポピュラーエレクトロニクス』でアルテアの記事と出合ったのは、そんなときだった。

 アレンはゲイツの寮へと走り、ソフトウエアで世に打って出るチャンスが来たと告げた。

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