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パソコン創世記
世界標準機、IBM PCの誕生

IBM、パソコン市場に参入する

富田倫生
2010/2/22

「世界第2位のコンピュータメーカー」へ

本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、日本のパソコン業界黎明期に活躍したさまざまなヒーローを取り上げています。普段は触れる機会の少ない日本のIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部)

本連載は『パソコン創世記』の著者である富田倫生氏の許可を得て公開しています。「青空文庫」版のテキストファイル(2003年1月16日最終更新)が底本です。「青空文庫収録ファイルの取り扱い規準」に則り、表記の一部を@ITの校正ルールに沿って直しています。例)全角英数字⇒半角英数字、コンピューター⇒コンピュータ など

 IBMにとっては最下位に位置づけられるマシンをになう、エントリーシステムズ部門の研究所長を務めていたウイリアム・ロウは、1980年7月、トップの顔をそろえた全社経営委員会でパーソナルコンピュータ市場に参入する必要性を訴えるチャンスを得た。

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 パーソナルコンピュータの市場はすでに、目覚ましい勢いで成長を遂げていた。この市場に早急に、可能なら1年以内に乗り込んでいくためには、パーソナルコンピュータの会社を買収するか、製品は自社の技術で作るというIBMの大原則からはずれて、マシンの構成要素を外部から買い集めて開発するしかない。

 ロウはそう訴えた。

 この市場を放置すれば第2、第3のDECの台頭を許しかねないと懸念していた社長のジョン・オペルをはじめとするトップは、自社開発を前提として計画をまとめ、1カ月で試作機を仕上げたうえで再度全社経営委員会に諮るよう求めた。

 ロウは13名のスタッフを選んで、研究所のあるフロリダ州のボカラトンに集めた。本番の製品とはかなり異なることを覚悟のうえで試作機作りが開始され、業務計画の検討と外注先への接触が並行して進められた。

 真っ白な紙に筆を下ろすように、開発チームはゼロからマシンの仕様検討に着手した。まず、中心となるマイクロコンピュータには、どこのメーカーのものを使うのか。既存のパーソナルコンピュータは、いずれも8ビットをとっていた。とすれば新しいマシンも8ビットでいくのか。それとも一歩先んじて16ビットをとるのか。

 市場で特に大きなシェアを獲得しているアップルII は、ハードウエアの仕様を全面的に公開するオープンアーキテクチャーをとって、サードパーティーによる増設ボードや周辺機器の開発に門戸を開いていた。

 革新的な技術を武器とする企業にとって、自社の技術を特許を含めたあらゆる手段で保護することは、常識以前だった。その常識をはずれて、郷に入れば郷に従い、オープンアーキテクチャーで臨むのか。さらにIBMにとってまったく経験のない桁外れの低価格商品となるこのマシンを、どのような販売ルートで流すかも大きな検討課題だった。

 さまざまな問題が山積する中で、選択の余地のないのがベーシックとOSだった。

 パーソナルコンピュータの標準言語となっているベーシックでは、マイクロソフトが主導権を握っていた。異なったメーカーのマシンに採用されているOSとしては、デジタルリサーチのCP/Mが唯一の存在だった。

 開発チームのスタッフはアメリカ大陸を東から西へと飛んで、カリフォルニア州モントレーのデジタルリサーチと、ワシントン州ベルビューのマイクロソフトを訪れた。

 7月の終わり、スタッフがデジタルリサーチを訪ねると、アポイントメントを取り付けていたにもかかわらずキルドールは席をはずしていた。IBM側はまず、「話し合いの中で明らかにされた内容は外部に漏らさない」とする守秘義務合意書へのサインを求めた。応対したキルドールの妻は、なじみのない肩肘を張ったやり方に不安を覚え、顧問弁護士の意見に従って署名を差し控えた。入り口で引っかかったまま、デジタルリサーチとの最初の会見は実りなく終わった。報告を受けたキルドールは合意書へのサインを拒むべきだとは考えなかったが、話の中身が分からないままに自分からIBMに働きかけようとはしなかった。デジタルリサーチは、ヒューレット・パッカード(HP)社へのCP/Mの供給交渉を進めている最中だった。16ビットの8086にCP/Mを対応させる作業は遅れ遅れとなっており、やるべき仕事はいくらでもあった。

 加えてカリブ海で休暇を楽しむスケジュールが、目の前に迫っていた。

 同じく7月の終わりに、相手に合わせてわざわざスーツを着込んでIBMのスタッフを迎えたビル・ゲイツは、市場調査と称してマイクロソフトの言語の開発体制に関して漠然とした質問を繰り返す彼らに、内心で首をひねっていた。8月に入ってからの2度目の訪問時に守秘義務合意書にサインをすませると、謎が明かされた。

 彼らはCP/Mとマイクロソフトのベーシックを載せた8ビット機を開発し、すでに人気を集めているプログラムの多くが使えることをマシンの売り物にしようと考えていた。

 彼らの用件は、従来どおりROMに収めた形で供給するベーシックをIBMのマシンに提供する用意があるかとの打診だった。

 ゲイツは依頼されれば喜んで引き受けると答えたが、1年後に発売を始める予定の新しいマシンを8ビット構成とすることには疑問があると付け加えた。

 インテルはすでに、1978年の6月に16ビットの8086を発表していた。8ビット単位で処理を進める8080に対し、16ビット単位の8086は処理速度を大きく向上させていた。さらに8080が64Kバイトのメモリーまでしか扱えなかったのに対し、8086は16倍に相当する1024Kバイト(1Mバイト)まで管理する機能を持っていた。

 もちろん新世代のマイクロコンピュータが誕生しても、そのメリットを生かしたマシンが作られ、これに対応した言語やOSが用意され、その基盤の上でアプリケーションが書かれるまでには時間がかかる。

 だがゲイツには、パーソナルコンピュータが16ビットへの転換期を目前に控えていることは明らかだった。企業のコンピュータ市場で絶対的なブランドイメージを誇るIBMがビジネス市場に向けて送り出すマシンなら、なおさら16ビット化は不可避に思えた。

 8月初旬、ロウは試作機をたずさえて再度全社経営委員会に臨み、短期間の調査をもとにまとめたパーソナルコンピュータの事業計画を諮った。

 マイクロコンピュータにはインテルの16ビット版を採用し★、マイクロソフトのベーシックを載せ、オープンアーキテクチャーで臨み、外部の販売ルートに乗せて小売店で売り出すという計画に、委員会はゴーサインを出した。

 ★『帝王の誕生』の著者である、ステファン・メインとポール・アンドルーは、ウィリアム・ロウへのインタビューをもとに、この時点で委員会に報告されたPCの当初計画の概要を同書に記している。

 8月6日に全社経営委員会に行った報告では、PCは8088を採用し、32KバイトのROM、16KバイトのRAM、増設スロット6個のほか、さまざまなオプションを備えるとされた。オプションとして示されたものには、最大256KバイトへのRAMの拡張、プリンター接続用アダプター、カラーもしくは白黒のディスプレイ、8インチのディスクドライブ、浮動小数点演算用プロセッサー、ジョイスティックがあった。現実に発表されたマシンでは、スロットは5つとされ、8インチのドライブは5インチに変更されていた。だがこの時点で、PCのスペックはほぼ固まっていたことが分かる。

 同書はこの指摘に引き続いて、PCが8ビット機ではなく16ビット機として構想されたことを、誰の貢献に帰すべきかという点に触れている。

 ビル・ゲイツとマイクロソフトは、「IBMの計画は当初、時代遅れの8ビットのデザインによっており、我々がこの計画を放棄させた」と主張している点に関して、著者は「理解できるが誤っている」とこれを退けている。

 非公式にマンハッタン計画と呼ばれていたというPCプロジェクトで、ソフトウエアの調達を担当していたジャック・サムズにインタビューした際、同書の著者は、この問題に関するサムズの主張を聞き取った。マイクロソフトとの最初の会見では、第1に情報漏れを警戒していたというサムズらは、ごく一般的な考え方にしかこの場では触れなかった。8ビットの計画への言及は、主要にはマイクロソフトの目をごまかすためのものであり、確かにその場でゲイツは16ビットを主張し、「我々がうなずいたことは確か」ではあるものの「そんなことはとうに承知だった」。IBMのエンジニアは、最下位機種を8ビットのチップを使って作ろうとして悪戦苦闘した経験を持っており、2度と悪夢を体験しようなどと思ってはいなかった、というサムズの主張を入れて、著者はマイクロソフト側の主張を却下した。

 似通った見解のぶつかり合いは、筆者自身もPC-9801のコンセプトの決定過程に関して体験することとなった。情報処理グループ側の複数の関係者からは、「当初のオフィスコンピュータの超小型版というイメージはごく暫定的なものであり、渡辺和也氏からの提案によって堂々と、遠慮なく従来の路線を継承できるようになったあとは、我々自身がオープンアーキテクチャーを独自に発見していった」といったニュアンスのコメントが寄せられた。一方、電子デバイス側には、旧態依然たる発想を打ち破る提案は、我々が示したとの記憶が残っている。

 PCとPC-9801の基本構想を誰が定めたかに関する対照的な見解はともに、当事者の記憶の中ではそのとおりの、正直なものであるだろう。こうした相反する見解を前にして、『帝王の誕生』の著者は主流側に重心を置き、『パソコン創世記』の筆者はやや傍流側に体重をかけて取りあえず問題をさばいている。最終的には直感と気合いで上げた軍配ではあるが、ここにいたるまでは異なった角度からの証言を集めていることを言い訳させていただき、妥当性に関してはさまざまな立場からの批判を仰ぎたい。

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