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パソコン創世記
パソコン革命の寵児 西和彦の誕生

パソコン革命の寵児

富田倫生
2010/3/4

「西和彦」へ

本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、日本のパソコン業界黎明期に活躍したさまざまなヒーローを取り上げています。普段は触れる機会の少ない日本のIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部)

本連載は『パソコン創世記』の著者である富田倫生氏の許可を得て公開しています。「青空文庫」版のテキストファイル(2003年1月16日最終更新)が底本です。「青空文庫収録ファイルの取り扱い規準」に則り、表記の一部を@ITの校正ルールに沿って直しています。例)全角英数字⇒半角英数字、コンピューター⇒コンピュータ など

 1956(昭和31)年2月、西和彦は神戸に生まれた。

 祖母は女学校の私立須磨学園の創設者で、祖父と両親も、この学校で教鞭をとっていた。学園内の敷地の一角に居を構える教育者一家の長男として生まれた西は、教室を遊び場に、教師を「なぜ」との問いの格好のぶつけ相手として育った。小学校に上がる前から実験室を覗いては化学の教師の魔法に目を輝かせたり、音楽や美術の教師にあれやこれやと手ほどきを受けることもあった。

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 忙しく動き回っている父と母には、あまりかまってもらった記憶はない。だが祖母は、初めての孫となる西をことのほか可愛がった。父と母にはねつけられたおねだりが、泣きながら祖母に訴えればかなえられることを覚え、西は何かにつけてはおばあちゃんの膝の上に転がり込むようになった。

 手厚い庇護の手に包まれて育った甘えっ子は、集団の一員として互いに比較され、隣り合った者と同じように振る舞うことを求められる小学校に戸惑った。1年生の西は、すでに本を読むことのできる自分が点と丸をうまく書くことができず、かけっこでも仲間たちにおいていかれることを知った。学年が進むごとに成績は上がったが、須磨学園で好奇心にまかせて育てた自我を押さえつけられるような窮屈さを、小学校では繰り返し覚えた。

 神戸市立板宿小学校時代の最良の思い出は、6年生のとき、教師に代わって、理科の授業で乾電池の使い方を講義したことだった。乾電池に興味を持った西は、誰に指示されるでもなく百科事典や中学、高校の教科書でその使い方や働きについて調べ、あらかじめ教科書にびっしりと書き込みを入れていた。興味を持って自分から調べた話を、みんなに理解させようと訴えたときの昂揚感は、西の記憶にあざやかに残った。

 飛松中学校に進むころから、根っからの教育者である母は、西に徹底して学習の機会を与えようと努めるようになった。英語に音楽、古文、漢文に現代国語の個人教授を受け、中学校3年生では4人の家庭教師がついた。

 そんな勉強漬けの中学校時代にも、内から湧き上がってくる興味を育てる機会はあった。新し物好きで、毛色の変わった電気製品には目のなかった父は、それまで真空管式だった電卓を1964(昭和39)年にシャープが初めてトランジスター化したコンペットを買ってきた。幅42×奥行44×高さ25センチメートル、重量は25キログラムとかろうじて机1つに載るほどの横綱級の図体で、価格も50万円強とじつに高価だったが、四則演算をこなすコンペットは西の目にはエレクトロニクスの魔法の産物と映った。中学校3年のときには、祖母にねだってリレーなどの部品を買い集める資金を得て、計算機の手作りも試みた。

 豊かな教育一家の長男坊として生まれた西は、思うままに、時には嫌になるほど学ぶチャンスを与えられて育った。

 1人ひとりが自立し、自我を核として振る舞う家族のあり方も、西にとっては教育的だった。

 須磨学園の生徒が問題を起こすようなことがあると、西の家庭は学校としての態度を決める論議の場と化した。教師である母はあくまで生徒を弁護し、「適当な指導を与えれば必ず立ち直る。退学にはせず、自宅謹慎でおさめて見守っていこう」と主張する。一方、祖父は、非行に対しては容赦なく退学を求めた。大阪の商売人の息子で、銀行員を経験していた父は「生徒が1人減れば授業料が減るやないか」と混ぜ返す。結局はいつも、祖母の「もう少し様子を見ながら考えていこう」とのくくりで論議にはけりがついたが、個性をぶつけ合いながらバランスを保っている家族が、西には好ましくも誇らしくも思えた。

 私立の受験校ながら、自由な校風で生徒を縛ることの少ない甲陽学院高校に入ってからは、西本人も個性を存分に発揮する機会を得た。物理部、天文部、英語部、エスペラント部、美術部、写真部、図書部、グリークラブと文科系のクラブの大半に同時に所属し、文化祭の準備に没頭し、コンサートや弁論大会の企画に駆けずり回った。おかげで高校1年の成績は、219名の学年中で218番。218番は2人いて、まぎれもないビリだった。

 のちに繰り返しインタビューを受ける中で、西は「パーソナルコンピュータの天才」と称されることにしばしば違和感を訴えている。自分自身を分析して、西は「閃きや才気を武器に切れ味で勝負する人間ではない」とする。むしろスタート時点では、頭脳の歯車の回りは悪い。ただし最終的に人を超える結果を出してこられたとすれば、鍵はあくまで考え続ける持続力と集中力にあったという。

 「トイレの電球は10ワット、机のスタンドは100ワット、スタジオのライトは1000ワットある。ところが1000ワットのライトでも、アスキーのある南青山から3キロメートル離れた東京タワーを照らすことはできない。ところがレーザー光線なら、わずか0.05ワットの光が届く。光のエネルギーをほんの1点に集中させれば、たとえ出力は小さくともそんな芸当が可能になる」

 こうした持続力と集中力を備えた強い頭を、うまく働かせたということなのだろう。高校3年生の2学期に行われた旺文社の模擬試験では全国で6位、東大合格率が75パーセント以上と出た。だが1本に絞った東京大学理科I類には不合格となり、2年目も東大には振られて、1975(昭和50)年4月、早稲田大学理工学部の機械工学科に入学した。

 機械工学になにか思い入れがあったわけではなかった。受験申し込み用紙の志望欄の1番目に機械工学科があったことで、何となくそこに印を付けた。

 早稲田大学の学生の多くは、山手線の高田馬場駅から早稲田通りの緩い上り坂を歩いてキャンパスに向かう。本部の間近には地下鉄の駅もあるが、少し離れた理工学部にとっては最寄りの駅は高田馬場となる。ここから西に向かって延びる西武新宿線の沿線には、早稲田の学生相手の下宿やアパートが多い。

 西は高田馬場から5つ目の野方に、下宿を借りた。

 大学からの紹介を受けて訪ねてきた長髪で童顔、体格のよさを通り越してかなり太り気味の学生は、部屋を見せられるなり、続きのふた部屋を借りたいと言い出して大家の郡司家を驚かせた。羽振りのよい学生はさらに何本もスチール製の本棚を運び込み、まるで資料室のように本を並べはじめた。晴れて大学生となった西は、おばあちゃんの財布を存分に活用して山のように本を買い集め、グライダーの練習に手を染めた★。

 ★パーソナルコンピュータの台頭と同時進行で書かれた田原総一朗の『マイコン・ウォーズ』(文藝春秋、1981年)は、当時の西和彦やビル・ゲイツ、ソード電算機システムを起こした椎名堯慶らの勢いを生き生きと写しており、あらためて読みなおしてみても特に冒頭の「一攫千金を狙う若者たち」などには胸のわくわくするような躍動感を覚える。当初『週刊文春』に連載されたこの企画を通すにあたっては、「週刊誌でコンピュータの話?」という社内の強い懸念を、当時から田原氏と組んでいろいろな仕事を仕掛け、その後もいろいろと多方面で仕掛けに仕掛ける文藝春秋の花田紀凱氏が吹き飛ばして実現したという。

 表にはなかなか出ないが書籍や雑誌の企画を実現させるにあたっての、編集者の果たす役割はきわめて大きい。アスキーの書籍のブランドイメージを大いに高めている『アラン・ケイ』『ワークステーション原典』といった仕事では同社の渡辺俊雄氏が大いに力をふるって、困難なプロジェクトをゴールまで引っ張ってきている。今回の筆者の仕事も、アスキーから刊行されたこれらの著作にきわめて多くを負っている。じつに勝手な言いぐさではあるが、『マーフィーの法則』ででもがんがん儲けて、今後も算盤勘定には合わなくても残すべき価値のあるこうした貴重な本を形にまとめ上げていっていただきたい。

 アスキー関係者の証言を集めた書籍にはほかに、『アスキー 新人類企業の誕生』(那野比古著、文藝春秋、1988年)がある。

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