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パソコン創世記
パロアルト研究所を超えて芽吹く、ダイナブックの種子

アルトの子供たち

富田倫生
2010/4/2

「リサのインターフェイス」へ

本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、日本のパソコン業界黎明期に活躍したさまざまなヒーローを取り上げています。普段は触れる機会の少ない日本のIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部)

本連載は『パソコン創世記』の著者である富田倫生氏の許可を得て公開しています。「青空文庫」版のテキストファイル(2003年1月16日最終更新)が底本です。「青空文庫収録ファイルの取り扱い規準」に則り、表記の一部を@ITの校正ルールに沿って直しています。例)全角英数字⇒半角英数字、コンピューター⇒コンピュータ など

 1980年の夏、スティーブ・ジョブズは社内の抗争によって、全力で取り組んできた「リサ」のプロジェクトリーダーの地位を追われた。ともにアップルを設立したスティーブン・ウォズニアックには、自ら開発したアップルII という拠りどころがあった。パーソナルコンピュータの意義を謳い上げ、カリスマとしてスタッフの力を引き出していくことには異才を発揮しながらも、技術的な力は持たなかったジョブズにとって、自ら開発の方向付けを行った「リサ」は、初めての自分のマシンとなるはずだった。

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 開発の現場からはずされ、会長に祭り上げられて対外的なスポークスマンという役割に限定されかかったジョブズは、ジェフ・ラスキンが中心となって細々と続けてきたマッキントッシュのプロジェクトに目を付けた。

 必要なものをあらかじめコンパクトにまとめ上げた小型で安いマシンを作る、というラスキンの定めた大枠は尊重したものの、徐々にプロジェクトへの関与を強めたジョブズは、マッキントッシュを「リサ」に対抗できるものに変えようと試みた。68000を使い、インターフェイスには全面的にアルトの流儀を採用し、マウスを付けるというジョブズの新しい方針にラスキンは激しく抵抗したが、1981年のはじめにはマッキントッシュは安くて小さな「リサ」を目指すプロジェクトに生まれ変わった。ラスキンはその後アップルを去った。

 「リサ」に対抗するプロジェクトを率いることになったジョブズは、先行する自社のライバルがワードプロセッサや表計算、データベース、グラフィックス作成ツールなどの開発も自力で進めていたのに対し、外部のソフトハウスにアプリケーションの開発を依頼してプロジェクトを絞り込み、開発時間の短縮を図ろうと考えた。

 1981年3月、パーソナルコンピュータに関する投資家向けのニューズレターを発行していたベンチャーキャピタリスト、ベン・ローゼンの主催する会議に招かれたスティーブ・ジョブズは、アップルがパロアルト研究所の成果を汲んだマシンの開発に取り組んでいることをほのめかした。この会議に出席していたマイクロソフトのビル・ゲイツは、アルトの子供にあたるパーソナルコンピュータの開発にアップルがすでに着手しているらしいことに驚かされた。

 パロアルト研究所が未来を開く可能性を秘めた技術の宝庫であることは、ビル・ゲイツも承知していた。言語の会社としてスタートし、進行中のIBM PCプロジェクトでOSの供給に乗り出していたマイクロソフトは、1981年2月にゼロックスから引き抜いたばかりのチャールズ・シモニーをリーダーに、アプリケーション分野にも踏み込もうとしているところだった。シモニーはパロアルト研究所在籍時、アルト用のエディターとして広く使われたブラヴォーを書いていた。

 ジョブズ同様、ビル・ゲイツもまた、アルトの成果はいずれパーソナルコンピュータで生かされるだろうと考えていた。だが開発中のIBMの新世代機すら、使っているマイクロコンピュータは8ビットと16ビットの中間的な8088だった。ゲイツには、パーソナルコンピュータの処理能力はまだ、アルトの精神を汲むには力不足と思えていた。だがアップルはそのときすでに、一歩を踏み出していた。

 会議が終わったあとでジョブズはゲイツに声をかけ、進行中のプロジェクトに関してさらに突っ込んで話しはじめた。

 1981年4月、ゼロックスはついに、スターと名付けたアルト直系のマシンの発表を行った。

 A4の縦長のディスプレイを採用していたアルトに対し、ブルーのあざやかな画面を横長(1024×800ドット)にとったスターは、大きなデータの高速処理に適したビットスライス方式★のマイクロコンピュータ、2901を採用して高度なグラフィックスの処理要求に応えようとしていた。

 ★『マッキントッシュ伝説』所収のジョン・カウチへのインタビューによれば、リサ用のマイクロコンピュータとして当初アップルは3つの候補を検討したという。そのうちのインテルの8086は64Kバイトのセグメント構造による制約から、グラフィックスの処理に適さないとしてまずはずされ、ビットスライスのカスタムCPUを起こす道とモトローラの68000を選ぶ2つの候補の中から後者が選ばれた。カウチ自身はこのインタビューでは「68000の方がかなり速いということが判明した」からと選択の理由を語っているが、もしもカスタムCPUを自分で起こすという道を選んでいれば、アップルはその後、独力で進めることになる開発環境の整備にかなり手こずっただろうと思われる。

 複数のアルトをつなぐために1975年にパロアルト研究所で開発されたイーサネットと呼ばれるネットワークの規格も、スターの発表時点では高速化されていた。基幹となる同軸ケーブルに、マシンから延ばした通信線を突き刺して簡単に接続できるようになっていたイーサネットは、当初1秒間に3Mビットの情報を送れたが、これが10Mビット/秒にまで高められていた。

 だがメモリー192Kバイト、1.2Mバイトの8インチドライブ、10Mバイトのハードディスクという基本構成で、価格は1万6600ドル、当時の対ドルレートで換算して約400万円と設定されていた。同一の価格帯のミニコンピュータやオフィスコンピュータが実現していた機能のレベルからすれば、スターはむしろ安かったとも評価できる。だがスターの処理能力の多くは、ディスプレイに向き合った人とのインターフェイスを改善することに費やされていた。

 人ひとりが独占して使うマシンとしては、スターはやはりあまりにも高価だった。

 発表以来、展示会やショーでは黒山の人だかりを集め、斬新なインターフェイスで見る者の視線を釘付けにしはしたものの、スターは商業的な成功を収めることはできなかった。

 だがアルトの子供たちは、視覚的な操作環境がコンピュータの可能性を大きく拡大することを雄弁に語りはじめていた。

 IBMがPCの発表を行った直後の1981年の夏の終わり、ビル・ゲイツはアップルを訪ねてマッキントッシュの進行状況を確認するとともに、開発スタッフと話し合う機会を持った。これ以降マイクロソフトではチャールズ・シモニーが中心となって、アップル側と密に連携をとりながらマッキントッシュのアプリケーションを開発するための準備作業が始まった。

 IBM PCの出荷が開始される以前から、マイクロソフトもまたアルトを継ぐものを射程におさめていた。すでにマイクロソフトの中枢にのし上がっていた西和彦もまた、アルトが切り開いた新しい世界の信奉者となっていた。

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