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パソコン創世記
京セラ、稲盛との出会いが生んだ2つの未来志向マシン開発計画

マイクロソフトに行って働いてみる?

富田倫生
2010/4/7

「西のハンドヘルドコンピュータ」へ

本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、日本のパソコン業界黎明期に活躍したさまざまなヒーローを取り上げています。普段は触れる機会の少ない日本のIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部)

本連載は『パソコン創世記』の著者である富田倫生氏の許可を得て公開しています。「青空文庫」版のテキストファイル(2003年1月16日最終更新)が底本です。「青空文庫収録ファイルの取り扱い規準」に則り、表記の一部を@ITの校正ルールに沿って直しています。例)全角英数字⇒半角英数字、コンピューター⇒コンピュータ など

 ハンドヘルド用のソフトウエア開発の責任者となった山下にとって、暮らしてみたい町を調査すれば必ず全米の上位にランクされるシアトルの爽快な夏は、時間との競争の苦しい思い出と結び付いている。

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 ある県立の医科大学で医用電子工学を教えていた山下良蔵は、1970年代後半、マイクロコンピュータを利用したシステムにCP/Mを載せ、その上に置いた言語でさまざまな医療用のシステムを開発していた。医療用の電子機器はきわめて高価だったが、自分で組めば桁外れに安いものができた。いろいろと工夫する余地があり、小回りが利く点でもこうしたシステムは魅力的だった。いくつかの言語の候補の中で、もっとも使いやすかったのはマイクロソフトのベーシックだったが、これにも直したい点があった。医療用のデータベースを作りたいと考えていた山下は、いったん言語のレベルまで戻ってこの作業に適したベーシックを開発できないかと考えるようになった。

 大阪大学基礎工学部に籍を置いていた1976(昭和51)年、山下は『コンピュートピア』の発行元であるコンピュータ・エイジ社が主催したイベントで、早稲田大学の西和彦と出会っていた。

 西和彦に話を持ちかけてみると、西は「じゃあ取りあえず、マイクロソフトに行って働いてみる?」といとも簡単に答えた。カリキュラムの都合で1年の半分は授業を持っていなかった山下は、1980(昭和55)年と翌1981年のそれぞれ半年を、マイクロソフトでソフトウエアの開発者として過ごした。

 西が抜群のセールスマンぶりを発揮した結果、マイクロソフトにはベーシックの移植作業のために、日本から続々とマシンが送られてきていた。ベーシックを日本語に対応させ、日本のメーカーから派遣されてくるスタッフと協力しながら移植作業を進めるためには、力のある日本人のソフトウエアの書き手をマイクロソフトに置いておくことが是非とも必要だった。

 1980(昭和55)年の初めてのシアトルの夏は、アルプス電気がOEMをしていたミロク経理のオフィスコンピュータのCP/Mに、ベーシックを対応させる作業にあてた。続いて翌年は、日本電気のPC-6001とPC-8801用のベーシック開発に取り組んだ。メインで担当することになったこれらの機種以外にも、山下は日本のマシンすべての面倒を見ることになったため、マイクロソフトでの日々は、常に時計の針に追い立てられるような緊張感があった。

 だがもう一方で、パーソナルコンピュータの性格を決めてしまう基本ソフトウエアの開発作業には、未来に延びるレールを自分で敷いていくような喜びがあった。「医療データベース用のベーシック開発の準備」と自分自身に向けて用意した口実は、2度目のマイクロソフト行きの際にはほとんど意味を持たなくなっていた。1982(昭和57)年4月、再びシアトルに飛んだ山下は、アスキーの鈴木、林とともに、タンディからモデル100として発売されることになるハンドヘルド機用のソフトウエア開発に取り組んだ。

 モデル100のすべてのソフトウエアを、3人のスタッフが半年で仕上げるというスケジュールは、もともとかなりの綱渡りだった。ところが西は、彼らの激務にいっそう拍車をかける話をつぎつぎとまとめていった。タンディに売り込んだものとほとんど同じハンドヘルドの企画を日本電気に売り込み、さらにはイタリアのオリベッティ社からも販売の契約を取り付けた。ハードウエアの構成もソフトウエアに関しても、共通するところがほとんどだったとはいえ、山下たちは3社から発売されるマシン向けの作業を並行して進めることとなった。

 すでに契約済みだったタンディに加えて、日本電気とオリベッティにも売り込むという西と京都セラミツクの動きに、タンディが一時態度を硬化させる一幕もあった。先行して開発が進められたモデル100では、全体をきわめてコンパクトに仕上げようとしたために、回路が発生させる電磁波によってメモリー内の情報が化ける可能性が生じる、というあらたな技術的問題点も浮かび上がった。

 1982(昭和57)年の暮れぎりぎりまでマイクロソフトで作業を続けた山下は、12月31日にシアトル空港発の飛行機に乗り、成田に降り立った翌年の1月1日付けで、社名をアスキーに変更したばかりの西の会社に入った。

 難産のハンドヘルドは1983(昭和58)年3月、タンディからTRSモデル100として発売された。

 それまでにも、可搬性を謳ったパーソナルコンピュータがなかったわけではない。

 西と同様、当初は出版の側からパーソナルコンピュータにかかわってきたライター兼出版社の経営者、アダム・オズボーンは、作る側にまわって1981年3月のWCCFでオズボーン1の発表を行った。5インチの白黒ブラウン管ディスプレイとフロッピーディスクドライブ2台を本体に組み込んだオズボーン1は、小型の8ビットCP/Mマシンで、飛行機の座席の下に収まるほどのコンパクトさと、約11キログラムという当時としては画期的な軽さを売り物としていた。

 テキサスインスツルメンツを飛び出して、1982年2月にコンパックコンピュータ社を設立したロッド・キャニオンもまた、ポータブルに目を付けた1人だった。

 キャニオンは初めてのマシンの開発に先だって、パーソナルコンピュータ分野で大胆な投資を成功させていたベン・ローゼンに資金提供を申し入れた。「全米を飛行機で忙しく飛び回るエグゼクティブ向けのポータブル機」というアイデアに、ローゼンは興味を示したが、それだけでは満足しなかった。

 キャニオンから提案を受ける直前、ローゼンはその才能を買っていたミッチー・ケイパーという若者が申し入れてきた、「表計算をベースにした多機能のアプリケーションを、発表されたばかりのIBM PC用に開発する」というプロジェクトへの投資を決めていた。

 1950年にダンボール箱工場の経営者を父に生まれたケイパーは、1970年を前後する熱い季節をエール大学の心理学専攻の学生として過ごした。当時ディスクジョッキーとしてロックのレコードを回し、急進的な政治グループのシンパとなり、超越瞑想に入れ込んだケイパーは、社会が急速に熱を冷まし、彼自身超越瞑想のトレーナーの職を失った1973年、コンサルタント会社にプログラマの職を得た。その後も超越瞑想に未練を残しつつ、IBMのメインフレームに悪態をつきながらプログラミングの経験を積んでいたが、やがて退屈な1970年代の推移に飽き飽きして心理学の博士課程への進学を考えはじめるようになった。

 パーソナルコンピュータが生まれたのは、そんな時期だった。

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