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パソコン創世記
第2部 第4章 PC-9801に誰が魂を吹き込むか
1982 悪夢の迷宮、互換ベーシックの開発

早水潔と小澤昇

富田倫生
2010/4/12

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本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、日本のパソコン業界黎明期に活躍したさまざまなヒーローを取り上げています。普段は触れる機会の少ない日本のIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部)

本連載は『パソコン創世記』の著者である富田倫生氏の許可を得て公開しています。「青空文庫」版のテキストファイル(2003年1月16日最終更新)が底本です。「青空文庫収録ファイルの取り扱い規準」に則り、表記の一部を@ITの校正ルールに沿って直しています。例)全角英数字⇒半角英数字、コンピューター⇒コンピュータ など

 ともに昭和20年代の前半に生まれ、大学でコンピュータと出合い、日本電気でオフィスコンピュータに携わることになった早水潔と小澤昇の歩みは、表面的になぞればほとんど重なり合っている。

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 生年に3年の差はあるものの、東京の世田谷に生まれ、私立有名大学の理工系に進み、同じ会社の同じ部門に籍を置くことになった2人の経歴には、共通項が多い。

 だがじつに似通っていながら、ほんのわずかの時間差は、早水と小澤の体験の色合いを確実に塗り分けていた。

 早水はまず、行く手を阻む壁としてパーソナルコンピュータと出合った。

 一方、小澤にとって、パーソナルコンピュータはむしろ、当初から未来を開く扉だった。

電算本流にとって
パソコンは敵か味方か

 1945(昭和20)年8月1日、早水潔は太平洋戦争の終わる直前に生まれた。

 中学校から慶応に進んだ早水は、1964(昭和39)年に慶応大学の(当時の)工学部に進む。情報処理専門の学科が設置される前の慶応では、コンピュータは工学部の計測工学科に割り振られていた。卒論のテーマには、高級言語の翻訳を特殊な形で処理するマシンの論理設計を選んだ。科学技術計算用に開発され、厳密な論理構造を備えるアルゴルの機械語への変換を、ハードウエアで処理してみようと考えた。1968年、早水は全共闘運動が激化する直前に日本電気に入社した。

 1948(昭和23)年生まれと戦後のベビーブーム世代に属する小澤は、1967年、早稲田大学理工学部の機械学科に進んだ。学科は直接コンピュータとの関係はなく、卒論のテーマも流体力学に関するものを選んだ。だがプログラミング研究会と称するコンピュータの同好会に所属した小澤は、全国の大学でいっせいに紛争の火の手が上がる中で、大学にあったIBMの大型機用にコボルやフォートランでプログラムを書くことを面白がっていた。

 配属決定前の面接で、早水はシステムエンジニアを志望し、府中の電子計算機開発本部の装置部にまわされた。部門自体はハードウエアの開発セクションだったが、割り振られた仕事は、設計作業を支援するプログラムの開発という、希望に沿ったものだった。ここで回路図を清書するプログラムからはじまって、論理設計図にもとづいて部品をどうつないでいくかを示す布線表を起こしたり、設計図をプリント基板のパターンに置き換えるプログラムなど、のちにCADと呼ばれることになる設計支援用ソフトの開発に、約10年間にわたって携わった。

 1976(昭和51)年に半導体のセクションが出したTK-80には、この間に興味を持ったことがあった。ペンで図面を描いていくプロッターを、当時早水たちはディジタルイクイップメント(DEC)のPDP-11でコントロールしていた。だが超小型、超安価のTK-80で代用できれば、装置のコストははるかに安くなる。結局、言語1つ載っていないTK-80にはプログラムの開発環境と呼べるほどのものがないことから、2台組み立ててみただけでプロッターの制御はあきらめた。だが1978年に出たTK-80BSには、ベーシックが載っていた。これならいけるのではないかと、チャンスがあれば使ってみようという気になったが、実を結ばないままに1980年に本社に移り、オフィスコンピュータ担当の小型システム事業部計画部に配属された。

 新しいセクションでの直接の担当は、オフィスコンピュータの海外への販売だった。日本電気はこの時期、システム100の海外仕様版をアストラと名付けてアメリカ市場にぶつけようともくろんでいた。

 プリンターのスピンライターをかかげて米国内に開拓した販路に、1979(昭和54)年3月から、アストラが乗せられた。これに先だつ1月から日本国内で出荷開始となったシステム100の新シリーズには、対話型のITOSが採用されていたが、本来このOSはアメリカにオフィスコンピュータを売り込むための市場調査の結果に沿って開発されたものだった。だがLSI化したオフィスコンピュータに対話型のOSを載せたアストラが狙う小規模ビジネスの市場を、まさにこの時期、パーソナルコンピュータが目覚ましい勢いで押さえはじめていた。

 転属となった計画部でアストラの巻き返しにあたった早水の目の前で、ビジカルクが爆発的なヒットを遂げ、CP/Mに対応したワードスターが人気を集めていった。

 アメリカの家具の傾向に合わせて、木目のキャビネットに入れるなどの巻き返し策をこうじてみた。だが、ビジネスの現場を足下から押さえはじめたパーソナルコンピュータの勢いの前にあっては、アストラは成果を残せなかった。1年の悪戦苦闘ののち、1981(昭和56)年10月にオフィスコンピュータ用のアプリケーション開発を担当するフィールドサポート部に配置替えになったとき、早水にはパーソナルコンピュータに対する潜在的な恐怖がしみついていた。

 日本ではいまだ、パーソナルコンピュータはオフィスコンピュータの市場を食い荒らす敵に育ちきってはいなかった。だがもしもアメリカの流れが日本にも及ぶとすれば、早水がアストラで経験した分の悪い戦いを、今後小型システム事業部全体が引き受けざるをえなくなる恐れがあった。

 早水から3年遅れで1971(昭和46)年に入社した小澤昇も、配属前の面接ではコンピュータの担当を希望した。大学時代に専攻した「機械」が考慮され、配属先は府中の周辺端末機器事業部となり、ここでラインプリンターの開発に携わった。

 大型コンピュータ用の高速印字装置であるラインプリンターには、大きな音が付き物だった。この騒音をあれやこれや工夫して抑えるのが、小澤の初めての仕事となった。

 その小澤が1975(昭和50)年7月、本社の小型システム事業部に異動して、オフィスコンピュータの製品計画を担当することになった。移った直後の8月、新しい部署から発表されたシステム100のGとHには、まだマイクロコンピュータは使われていなかった。だが小澤がマシンのイメージ固めに加わり、翌1976年に発表された次のE/F/Jの世代から、システム100は全面的にLSI化され、マイクロコンピュータが採用された。

 小澤にとってコンピュータとは、少なくとも開発に直接携わったものに関しては、当初からマイクロコンピュータのマシンだった。

 徹底したLSI化によって小型化と製造コストの切り下げを果たすとともに、ブラウン管式のディスプレイを採用するなど新しい特長を盛り込んだこのシリーズによって、日本電気のオフィスコンピュータは、同社のコンピュータ事業の歴史の中で初めて利益を出す部門へと脱皮した。

 そこに登場してきたパーソナルコンピュータが無視できない存在であることは、小澤の目にも当初から明らかだった。アメリカで開かれる関連のショーを覗けば、アストラが狙っているスモール・ビジネス・コンピュータの市場に、パーソナルコンピュータは確実に食い込みはじめていた。こうしたマシンが、ユーザー自身がベーシックでプログラムを書くものであり続けるうちは、彼らの領分は限られたものにとどまるように思えた。ところがパーソナルコンピュータの側からも、マシンを導入して電源を入れればすぐに使いだすことのできるタイプが生まれはじめていた。鍵を差し込んでひねればすぐに使えるとの意味を込めて、ターンキーと呼ばれた出来合いのシステムは、スモール・ビジネス・コンピュータの売り物だった。ITOSを用意する一方で、小澤の同僚はそれゆえ、さまざまな用途に対応したアプリケーションをあらかじめ準備していた。ところが似通った提案は、パーソナルコンピュータの側からも寄せられはじめていた。

 特に小澤の関心を引いたのは、タンディのTRS-80だった。

 8ビットのマシンながらCP/Mを搭載し、フロッピーディスクドライブとドットプリンターを従え、表計算やワードプロセッサのアプリケーションを載せたTRS-80は、立派なターンキーのシステムを構成しているように見えた。

 一方でアメリカ市場への進出を試みているとはいえ、あくまで日本市場中心のシステム100の企画をになっている小澤にとって、パーソナルコンピュータの脅威はまだ足下には及んでいなかった。英語で用いるアルファベットなら、8ビットをひとまとまりとした1バイトのコード体系で処理できる。それゆえ8ビットのマシンでも、ビジネス用としてかなり使い物になる。ただしはるかに数の多い漢字を扱うには、2バイトのコードにたよらざるをえない。日本語を本格的に使うとなれば、16ビットのマシンは不可欠だった。

 とすれば、ビジネスの現場でより小規模で低価格のマシンが求められるようになるという流れだけを先取りして、オフィスコンピュータの側からそうした解をいち早く提案してしまえばいい。

 「今後は情報処理事業グループで、16ビットのパーソナルコンピュータを開発していく」というトップの決定にもとづいて、1981(昭和56)年春からビジネス・パーソナルコンピュータ(BPC)の開発計画がスタートしたとき、小澤はパーソナルコンピュータがシステム100の世界をさらに下位にまで広げていく刺激を与えてくれたと、積極的に受けとめていた。

 パーソナルコンピュータをビジネスの道具として本格的に使いはじめる動きには、日本とアメリカで2、3年の時間差があった。

 アストラの販売を担当した早水潔が炭坑のカナリアのようにいち早くパーソナルコンピュータの脅威を痛感し、それでいてなお、オフィスコンピュータの方向付けをになう小澤昇が新しい波に対処する余裕を実感できる絶妙のタイミングを図って、情報処理事業グループの16ビットBPC開発計画は動き出していた。

 BPCはオフィスコンピュータの下位に位置づけるべきか。それともパーソナルコンピュータの上位に位置づけなおすべきなのか。その答えは明らかではなかった。

 だが日本電気のオフィスコンピュータ部隊は、「16ビットのパーソナルコンピュータは彼らにになわせる」というトップの決定によって、新しい波に追い詰められる前に、その答えを自ら下すチャンスを与えられた。

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