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パソコン創世記
第2部 第4章 PC-9801に誰が魂を吹き込むか
1982 悪夢の迷宮、互換ベーシックの開発

ソフトがハードの従属物ではなくなった日

富田倫生
2010/4/20

「古山、OSと出合い、戸惑う」へ

本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、日本のパソコン業界黎明期に活躍したさまざまなヒーローを取り上げています。普段は触れる機会の少ない日本のIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部)

本連載は『パソコン創世記』の著者である富田倫生氏の許可を得て公開しています。「青空文庫」版のテキストファイル(2003年1月16日最終更新)が底本です。「青空文庫収録ファイルの取り扱い規準」に則り、表記の一部を@ITの校正ルールに沿って直しています。例)全角英数字⇒半角英数字、コンピューター⇒コンピュータ など

 1963(昭和38)年、ハネウェルはIBMの事務処理用マシン、1400シリーズ向けに書かれたプログラムをそのまま利用できるH200を発表し、互換機ビジネスに大きな可能性があることを実証して見せた。

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 日本電気はH200をNEAC-2200として日本で販売した。古山はこのOSをカナ文字に対応させたり、複数のプログラムを同時並行で処理できるマルチタスクの機能を持ったOSを別個に開発するなどの作業にあたった。

 1971(昭和46)年、コンピュータの貿易自由化を前にした通産省の指導によって日本電気が東芝と組み、IBM非互換でACOSシリーズの開発に着手すると、古山はシリーズの中では比較的小規模なACOS2のOSを担当することになった。

 大規模なメインフレーム用のOS開発に取り組んでいても、古山は「何から何まで分かっていたい」という気持ちをなかなか拭いきれなかった。そんな性分を見抜いたように、規模の小さなACOS2を担当させてくれた上司の配慮が、古山には嬉しかった。

 大型機用のOS開発を通じて組織的、体系的に開発作業を進めることの重要性を繰り返し確認しながら、古山はどこかに1匹狼の職人気質を引きずっていた。

 その古山の個性は、ITOSの一大トラブルに際して、存分に発揮された。

 1978(昭和53)年の9月から10月にかけて、情報処理小型システム事業部はユーザーと対話しながら使い方を指導する機能を盛り込んだ基本システム、ITOSを搭載したオフィスコンピュータの新機種を発表していった。

 ITOSの設計思想はディーラーとユーザーからともに高い評価を受け、翌1979(昭和54)年3月には、搭載機種の出荷台数が早くも1000台を超えた。だが全国各地にばらまかれたITOS搭載マシンは、本格的に運用され始めたこの時期、いっせいに火を噴いた。

 コンピュータ事業全体の参謀本部役をになう情報処理企画室の石井善昭は、3つの柱からなる対応策を打ち出した。

 第1に、ユーザーからのクレームには小型システム事業部のスタッフが全員で対応し、いっさいの他の業務に優先して顧客のもとにはせ参じ、頭を下げ、マシンで処理できなくなった仕事を手伝ってでも日本電気側の誠意を見せる。

 第2に、すべてのディーラーに集まってもらい、事情を説明するとともにITOSの手直しのスケジュールを示して理解を求める。

 第3に、ITOSの問題点を解析し、早急に手直しを行う。

 今後のコンピュータ事業の帰趨を決することになるITOSの修正作業の責任者として、石井は基本ソフトウエア開発本部第3開発部長、古山良二を指名した。

 古山は数名の選りすぐった部下を引き連れ、他人の仕事場に乗り込んで彼らを指揮しながらITOSを手直しするという、難しい役割をになうことになった。

 ITOSの現状の分析から着手して間もなく、ハネウェルで初めてOSを学んだときの記憶が古山によみがえった。

 ITOSを構成する個々のモジュールは、ほとんどが問題なく仕上がっていた。だがモジュール同士をつなぐところに、トラブルの種が数多く残っていた。従来のシステム100のOSが、プログラムの行数でせいぜい1万行から2万行規模だったのに対し、ITOSは20万行と桁外れに膨れ上がっていた。ここまで大型化すれば、鳥瞰的な視点に立って個々のモジュールの役割を厳密に定義するとともに、各モジュールのすり合わせを専門に行う担当者を配置することが欠かせないはずだった。だが、1977(昭和52)年から1979年にかけて府中のコンピュータの開発、生産要員の約3分の1が営業や保守部門に配置替えとなる中で、ITOSの開発は全体の調整役を置くという問題意識と人員の余裕を欠いたまま進められた。

 最盛期には150名近い開発要員を指揮して、古山はITOSのデバッグに取り組み、着手から4カ月後にはようやく安定して動作する3.3版のリリースにこぎ着けた。バグをほとんど取りきり、約束していた機能をすべて備えた3.5版は、トラブル発生から約1年を経て出荷することができた。この3.5版では、プログラムの規模はおよそ30万行に達していた。

 古山が日本電気に入社した当時、ハードウエアの与えてくれるほんのちっぽけなスペースを利用して書くのが当然だったソフトウエアは、OSだけで、大量のマンパワーを投入して築き上げる大規模なシステムに膨れ上がった。ソフトウエアは、コンピュータ技術の脇役と位置づけるには余るほどの大きな役割を演じはじめていた。

 ITOSのトラブルが日本電気のオフィスコンピュータ事業を崖っぷちまで追いつめたのは、それゆえだった。

 だが、渋面を浮かべて西和彦にベーシックの開発を拒否された経緯を語る浜田にとって、マシンの性格を決める基本ソフトウエアの持つ意味はなおいっそう重かった。

 オフィスコンピュータをさらに小型化して開発を進めているBPCから、浜田はPC-8001、PC-8801と互換性を持った16ビット機に傾いていた。だが互換ベーシックを古山が「書こう」と一言いわなければ、より成功の可能性が高いと信じるマシンの開発に、浜田は着手することもできないのだ。

 そう内心で確認したとき、古山は風が決定的に吹き変わったことをはっきりと意識した。

 古山が一筋に携わってきたソフトウエアは、もはやハードの従属物ではなかった。使い勝手の向上を求めて機能の強化に努めていく中で、OSや言語の規模はしだいに膨らんだ。さらにその基本ソフトの上におびただしい労力と知恵がつぎ込まれ、たくさんのアプリケーションが書きためられていった。一歩一歩プログラム資産がたくわえられていった挙げ句、コンピュータシステムにおける価値の源泉は、ハードウエアからしだいにソフトウエアへと移行していった。

 古山は手元のノートに落としていた視線を上げて、浜田の肩を見た。

 吐き出した息が透明な溜息のかけらに変わるのに合わせて、浜田の肩が静かに落ちたように見えた。

 そのとき、互換ベーシックの調達に胃袋を締め上げられる浜田の姿は、古山の目に風の吹き変わりの象徴のように映った。

 ふと胸に湧き上がってきたのは、気負いや誇りではなかった。

 古山はその時、何から何まで常識外れのこの仕事が「面白いのかもしれない」と思った。いたずらな好奇心が脳裏を駆け抜けるのに半歩遅れて、古山は再び開発条件の厳しさに思いを馳せた。その瞬間、冷水を浴びせられたように古山はかすかに頭を振ったが、極めつけの困難の果てに控えているだろう充足感からは、もう視線をそらせられなくなった。

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