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パソコン創世記
第2部 第4章 PC-9801に誰が魂を吹き込むか
1982 悪夢の迷宮、互換ベーシックの開発

「PC-9801対応」と明記してくれ

富田倫生
2010/5/10

前回「PC-9801の誕生」へ

本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、日本のパソコン業界黎明期に活躍したさまざまなヒーローを取り上げています。普段は触れる機会の少ない日本のIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部)

本連載は『パソコン創世記』の著者である富田倫生氏の許可を得て公開しています。「青空文庫」版のテキストファイル(2003年1月16日最終更新)が底本です。「青空文庫収録ファイルの取り扱い規準」に則り、表記の一部を@ITの校正ルールに沿って直しています。例)全角英数字⇒半角英数字、コンピューター⇒コンピュータ など

 PC-9801の出荷が始まった1982(昭和57)年の10月末、アプリケーションの準備を担当していた早水潔は、思いもかけなかったハードルがもう1つ行く手に控えていることに初めて気付かされた。

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 発表時点で60本、出荷開始時には100本を加え、つごう160本のアプリケーションをそろえるという目標の達成のために、この年の秋、早水はサードパーティー各社を繰り返し訪ねては作業の進捗状況を確認していった。

 9月初頭から合計約50台配付した発表前のマシン上で、早水の目論見(もくろみ)から遅れはしたものの、各社は開発作業を進めつつあった。PC-9801発表直後のデータショウでは、目標には達しなかったが、かなりの数のアプリケーションをデモンストレーションすることができた。

 だが、開発を終えたプログラムを商品としてショップの店頭に並べるまでには、予想していなかった数多くの煩雑な作業が控えていた。商品化に向けた仕上げに要する時間は、早水の予定表にはほとんど組み込まれていなかった。

 従来のオフィスコンピュータ用アプリケーションなら、プログラムが開発できれば作業はほとんど完了だった。単価の高いオフィスコンピュータ用では、ユーザーに使い方を理解してもらうために人員を派遣することができた。簡単な手引きをもとにまず使いはじめてもらい、必要に応じて繰り返し説明することも可能だった。

 ところが単価の低いパーソナルコンピュータ用では、使い方の説明のために人を派遣するなどとうてい考えられなかった。ユーザーに自力で使い方をマスターしてもらうためには、懇切丁寧なマニュアルをあらかじめ用意しておかざるをえなかった。

 さらに流通ルートに乗せてショップの店頭に並べるためには、あらかじめかなりの本数のパッケージを用意しておく必要があった。だが大半がマンションの1室にマシンを並べただけの開発元は、フロッピーディスクやカセットへのコピーを大量にこなす設備など持っておらず、こうした作業を専門にこなす業者も存在していなかった。わかりやすいマニュアルを書くための専門スタッフの養成が欠かせないという意識そのものが希薄な当時、かき集めたライターと開発者自身による効率の悪い共同執筆作業は、時間ばかりを食って満足な原稿を生み出せなかった。さらにでき上がった原稿は従来どおりの印刷工程に乗せざるをえないために、そこでもまたたっぷり時間が費やされた。プログラムの開発が完了したと聞かされてから実際に製品が仕上がるまでに、あっという間に2カ月、3カ月が過ぎていった。

 翌1983(昭和58)年1月、早水はサードパーティーからの情報をもとに、PC-9801用に開発されたアプリケーションを網羅した『ソフトウエア一覧』と名付けた小冊子をまとめた。のちに『アプリケーション情報』と改題され、電話帳並みに膨れ上がってPC-9801用ソフト資産の厚みを誇示することになるこの冊子の編集中には、予想外のうれしいニュースも飛び込んできた。

 事前にはまったく働きかけを行っていなかったアイ企画と名乗る大阪のソフトハウスが、PC-8801用に売り出していた日本語ワードプロセッサーの『文筆』を、あっという間にPC-9801に載せ替えて売り出した。ただし全体として見れば、いつになったら開発に着手できるか見当のつかないものも含め、44社のサードパーティーに可能な限りリストアップしてもらった全269本のアプリケーションのうち、「発売中」と表記できたものは94本にとどまった。

 年間7万台の販売を予定したPC-9801は、当初好調な滑り出しを見せた。

 パーソナルコンピュータの販売店や一部のオフィスコンピュータのディーラーが積極的な仕入れを行い、出荷開始直後は注文をさばききれない事態となった。

 PCサブグループの後藤たちが1000を表わすKの単位で月間の出荷台数に言及するたびに、N-10プロジェクトの小澤や早水たちはオフィスコンピュータとのあまりの規模の違いに唾の湧き上がってくるような緊張を覚えさせられてきた。出荷開始直後、PC-9801は月間1万台を上回るペースで出荷されていった。

 そのPC-9801の当初の勢いが、皮肉にも早水の『ソフトウエア一覧』が刷り上がった1983(昭和58)年の1月には陰りはじめていた。これまで日本電気の8ビット機を使ってきたユーザーの中で、マニアックな層は「より速いPC-8801」を求めていち早くPC-9801に飛びついてくれた。ただし本来のターゲットである本格的なビジネス市場の開拓には弾みがつかず、3月の決算期を前にして、在庫を抱えたショップやディーラーからは不満の声があがりはじめた。

 年度末までの集計で、PC-9801は月間1万台に近い4万5000台の出荷を記録した。とはいうもののこの時期、流通段階にプールされた在庫がかなりの数に上っていることを、浜田は販売ルートからの苦情によって知らされていた。


 PC-9801用のアプリケーションを、1本でも多く、1日でも早くショップの店頭に並べるよう浜田から繰り返し厳しく尻を叩かれた早水は、年開けからサードパーティー行脚にいっそうの拍車をかけていた。他機種用に新しいアプリケーションが書かれると、即座に開発元を訪ねてPC-9801への移植を頼み込んだ。

 マンションの1室でのたこ部屋作業に明け暮れる若者たちを励まし、製品の出荷にこぎ着けるために、ほとんどが1世代下の社長たちにあれこれと手を貸した成果は、春が過ぎてからようやく実りはじめた。ショップの店頭には、従来の8ビット機用と並んで、PC-9801用と銘打ったパッケージがそろいはじめた。

 サードパーティーによるパッケージの量と質が、PC-9801の成否の鍵を握ると信じた浜田は、広告にもあらたな試みを持ち込んだ。直接には取り引きも資本関係もない他社の製品である対応アプリケーションを、日本電気が費用を負担する新聞広告で、開発元のソフトハウス名入りで紹介してみた。

 広告の重要性は、スピンライターとアストラの売り込みを図った際、アメリカのディーラーから繰り返し指摘されていた。PCの売り込みにあたって、チャップリンのキャラクターを使ってIBMが展開した一大テレビ広告キャンペーンの威力については、関係者から何度となく聞かされた。

 PC-9801の発表当初、パーソナルコンピュータ販売推進本部にはテレビコマーシャルを打つ広告費などとても確保できなかった。そこで、自社の広告を使ってサードパーティーのアプリケーションを紹介したその一方で、浜田は早水に指示して、ソフトハウスの広告に「PC-9801対応」を明記してくれるよう働きかけた★。

 ★広告の載った雑誌の発行部数と「PC-9801対応」を謳ってくれたページ数を掛け合わせた〈露出計数〉は、パーソナルコンピュータ推進本部において月ごとに集計されていた。この数字を積み増すことを目指して、ソフトハウスへの依頼は、組織的に徹底して繰り返された。浜田俊三が本部長の職を離れる1985(昭和60)年7月段階で、〈露出計数〉は月間800万ページに達していた。

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