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パソコン創世記
第2部 第5章 人ひとりのコンピュータは大型の亜流にあらず
1980 もう1人の電子少年の復活

ジョブズ、ウォズニアックと出会う

富田倫生
2010/5/18

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本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、日本のパソコン業界黎明期に活躍したさまざまなヒーローを取り上げています。普段は触れる機会の少ない日本のIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部)

本連載は『パソコン創世記』の著者である富田倫生氏の許可を得て公開しています。「青空文庫」版のテキストファイル(2003年1月16日最終更新)が底本です。「青空文庫収録ファイルの取り扱い規準」に則り、表記の一部を@ITの校正ルールに沿って直しています。例)全角英数字⇒半角英数字、コンピューター⇒コンピュータ など

 1954年2月に生まれ、ホームステッドハイスクールでジョン・マッカラムのエレクトロニクスの授業の洗礼を受けていたスティーブ・ジョブズは、自分以外にもこの世に才能を持った人間が存在していることを、クリームソーダコンピュータによって思い知らされた。

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 父のポール・ジョブズは、ウィスコンシン州の農家に生まれた。高校を中退したあと、湾岸警備隊に潜り込み、第2次世界大戦後は機械工を経て自動車ローン関係の金融会社に籍を置いた。結婚したポール・ジョブズ夫妻に、スティーブは生後間もなく養子としてもらい受けられた。父の転勤に伴って、彼は1961年にシリコンバレーの新興住宅地、マウンテンビューに移ってきた。

 泣き虫で学校でも友達をうまく作れないジョブズは、野球やフットボールなどの団体スポーツになじめなかった。やがて彼は水泳のクラブチームに所属して放課後をプールで過ごすようになった。ここでもなかなか仲間の輪にとけ込めなかったジョブズだったが、10歳を過ぎたころからエレクトロニクスに関心を抱き、近所に住むヒューレットパッカード(HP)社のエンジニアの家に押しかけては質問の雨を降らせるようになった。

 ジョブズは12歳のとき、エンジニアが連れていってくれたHPで、初めてコンピュータに触れた。

 ホームステッドハイスクールでエレクトロニクスを担当したジョン・マッカラムにとって、スティーブ・ウォズニアックはいつまでもあざやかに記憶に残るきわめて優秀な生徒だった。一方スティーブ・ジョブズのエレクトロニクスの才能に関しては、マッカラムは曖昧(あいまい)な印象しか持たなかった。昔気質(かたぎ)のマッカラムが記憶しているのは、教師の目には知ったかぶりでかたくなに映ったジョブズの表情と、彼の強引な物事の進め方だった。

 ジョブズが取りかかっている機器に、バローズ社でしか取り扱っていない部品が必要なことに気付いたマッカラムは、部品を分けてもらえないか広報にでも電話を入れてみてはどうかと彼にアドバイスした。ジョブズがコレクトコールでバローズに電話を入れ、「開発中の電子機器にバローズ製品の採用も検討したい」と称して部品を送るよう指示していた事実を知り、マッカラムはジョブズの傲慢(ごうまん)な態度を厳しく叱責した。だがマッカラムの不興を買いはしたものの、ジョブズは望みどおり、数日のうちに航空便で送られてきた部品を手に入れた。

 ジョブズはエレクトロニクスに関する自らの天分に、絶対の自信を持っていた。だがビル・フェルナンデスに引き合わされた4つ年上のウォズニアックは、すでにコンピュータを自分の手で作り上げていた。

 ジョブズにとってウォズニアックは、自分よりもエレクトロニクスに詳しいと認めざるをえない初めての同世代の人物だった。

 年下の少年に披露したことに満足することなく、ウォズニアックはクリームソーダコンピュータに世間の注目を集めようと、地元の『サンノゼマーキュリー』紙の記者に連絡をとった。だが記者がカメラマンとともに訪ねてきた当日、故障した電源は高い電圧をかけて白煙とともに集積回路をお釈迦にした。クリームソーダコンピュータは永眠して、ウォズニアックの天才ぶりが世に知れ渡るのはもう少し遅れることになった。

 1971年、ウォズニアックはカリフォルニア大学バークレー校に入りなおした。初めての車を手に入れたばかりのジョブズは、寮に入ったウォズニアックをしばしば訪ねるようになった。

 バークレー校に入って間もなく、ブルーボックスという長距離電話のただがけ装置の存在を雑誌の記事で知ったウォズニアックは、今度はこれの開発に熱中した。より洗練された回路でより小さく装置を仕上げようと、電話交換技術の細部まで調べつくしたウォズニアックにとって、電卓並みのサイズでデジタル式のブルーボックスが完成した時点で、ゲームは終わっていた。

 だが、今回の作業の助手を務めたジョブズは、ブルーボックスを商売にすることを思いついた。ウォズニアックを説得したジョブズは、部品を調達して開発者を量産にあたらせ、寮の学生の部屋をノックしては訪問販売を開始した。2人は翌年、電話荒らしのヒーロー、キャプテンクランチことジョン・ドレイパーが逮捕されるまでに、200台のブルーボックスをさばいて6000ドルを売り上げ、賢明にもこの段階で商売を切り上げた。

 だが電話交換技術の探求とブルーボックスの開発・製造に入れあげ、この間ほとんど授業に出なかったウォズニアックは、悲惨な成績表というもう1つの問題を抱えていた。1年で再び大学を去ったウォズニアックは、半導体製造装置を作っていたエレクトログラス社の組み立てラインで半年ほど働いたあと、1973年、友人の口利きでHPに職を得た★。

 ★アップルコンピュータを設立した2人のスティーブに関して記述した書籍には、『Two Steves & Apple』(プロデュース・センター編著、旺文社、1983年)、『アメリカン・ドリーム』(マイケル・モーリッツ著、青木榮一訳、二見書房、1985年)、『スカリー』(ジョン・スカリー/ジョン・A・バーン著、会津泉訳、早川書房、1988年)、『スティーブ・ジョブズ』(ジェフリー・S・ヤング著、日暮雅通訳、JICC出版局、1989年)、『エデンの西』(フランク・ローズ著、渡辺敏訳、サイマル出版会、1989年)などがある。1984年とかなり早い時点で、マッキントッシュ以前までのアップルの歩みを、丹念に、生き生きと書きとめた『アメリカン・ドリーム』が刊行されたことは、その後の著作の積み上げに大きく貢献している。

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