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パソコン創世記
第2部 第5章 人ひとりのコンピュータは大型の亜流にあらず
1980 もう1人の電子少年の復活

日本のパソコンをリードした2人の研究者

富田倫生
2010/6/14

前回「アナログからデジタルへの跳躍」へ

本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、日本のパソコン業界黎明期に活躍したさまざまなヒーローを取り上げています。普段は触れる機会の少ない日本のIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部)

本連載は『パソコン創世記』の著者である富田倫生氏の許可を得て公開しています。「青空文庫」版のテキストファイル(2003年1月16日最終更新)が底本です。「青空文庫収録ファイルの取り扱い規準」に則り、表記の一部を@ITの校正ルールに沿って直しています。例)全角英数字⇒半角英数字、コンピューター⇒コンピュータ など

日本のパソコンをリードした
2人の研究者

 松本が3年から移った第1部の電気通信工学科には、生まれたばかりのマイクロコンピュータにいち早く飛びついた若手の助教授がいた。

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 東京・調布の電気通信大学を1959(昭和34)年に卒業した安田寿明は、読売新聞社でジャーナリストとして働いたのち、東京電機大学に職を得て研究者となっていた。

 情報産業の展開、コンピュータの社会的な役割に関心を寄せていた安田は、1972(昭和47)年の年明けそうそう、友人からの電話でインテルが面白い集積回路を作ったらしいという話を耳にした。

 同社の輸入代理業務を行っていたパネトロン社に連絡を取ってみると、コンピュータのCPUを集積回路にまとめたマイクロコンピュータの話が聞けた。

 パネトロンによれば、4月中旬には8008の試供品が20個、日本に入ってくるという。予約を申し入れ、入荷の知らせを受けて2カ月半後に横浜のパネトロンまで出かけていくと、複数の大手電機メーカーの顔見知りとばったり出会った。マイクロコンピュータの情報が日本のメディアにはまだまったく取り上げられていなかった時期、抜かりなく初めて入ってくる試供品を押さえる彼らの脇のしまり具合には感心させられた。小遣いをためて用意した8万5000円で1つ仕入れた8008を、静電気で壊さないようアルミ箔でていねいにくるんでポケットに入れた。中には5個まとめて買っていく会社もあり、20個は安田の目の前で瞬く間に売り切れた(『マイ・コンピュータ入門』)。

 安田が8008の実物を手に入れて間もなく、『エレクトロニクス』の1972(昭和47)年7月号に、日本のメディアとしては初めてのマイクロコンピュータの紹介記事が掲載された。

 筆者は、当時東京大学大型計算機センターの助教授だった石田晴久。東京エレクトロンに籍を置き、のちにインテルジャパンの会長となる加茂剛弘から、石田はこの年の正月に電話連絡を受けていた。

 「アメリカから面白いものを持ってきたのですが、夕食でもとりながらご覧になりませんか」

 そう誘われて指定された都心の高層ホテルに出向くと、同社の北原積と加茂が待っていた。見晴らしのよい上層のレストランのテーブルにつくと、加茂が小さな集積回路をテーブルの上にちょこんと置いた。セラミック製のパッケージに印刷された4004の文字が、石田の目に飛び込んできた。

 2人の説明によれば、インテルが開発したこの集積回路には2250個のトランジスターが集積されており、性能はごく限られたものながらこれ1つでCPUとして働くように作られているとのことだった。

 この分野を専攻して以来、さまざまな素子をはんだごてを使って1つ1つつなぎ合わせ、石田は実験用のコンピュータをいくつも作ってきた。そうした作業の中心を占めるCPUが、出来合いの部品として、しかもこれだけ小さな形で提供されたことに、石田は感動と衝撃の入りまじった気持ちの高ぶりを覚えた。2人の説明によれば、4004の処理速度は遅く、機能は乏しく、ROMに焼き込んだプログラムだけを実行するという形式にも制限があった。だが急速に進歩しつつある半導体技術を生かせば、今後、チップ化されたCPUの性能を高めていくことに大きな障害はなかった。量産の容易な集積回路にまとめている以上、CPUのコストは従来の常識とは桁外れに低く抑えられるはずだった。

 「オーディオ機器の自作派やアマチュア無線をやっているような人たちなら、コンピュータが自分で作れるようになりますよ」

 「そのうち秋葉原あたりに、コンピュータの日曜工作センターでも作りましょうか」

 「ワンチップCPUを使って多様な機能が実現できるとなると、これは多品種少量生産を支える技術として、奇想天外なところにも使われるようになりますよ」

と次から次へ湧き上がってくるアイディアをぶつけ合い、「今後この技術にはしっかり注目していきましょうよ」と確認しあったときには、窓の外はすっかり暮れて、はるかに広がる街の灯が美しい夜景を作っていた(『マイクロコンピュータの使い方』石田晴久著、産報、1975年/『パソコン入門』石田晴久著、岩波新書、1988年)。

 石田は『エレクトロニクス』の編集部に話をつけて「ワン・チップ・CPU」と題した初めてのマイクロコンピュータの紹介記事を書いた★。続いてこのテーマに絞って一気に書き上げた原稿を『マイクロコンピュータの使い方』にまとめて、石田は1975(昭和50)年1月に産報から刊行した。

 ★日本に初めてマイクロコンピュータを紹介した『エレクトロニクス』誌1972年7月号所収の論文は、以下のように始まる。

 「大規模集積回路(LSI)の発達に伴い、電子計算機の(メモリを除く)中央処理装置(CPU=Central Processing Unit)はやがて1個のLSI、すなわちワン・チップにのってしまうであろうということはかなり前からいわれていたが、このほどそのはしりとなるものがいよいよ市場に登場した。それは読出専用メモリ(ROM)を主メモリとした、4ビット並列処理のワン・チップCPU(MCS-4、アメリカのINTEL社製、わが国ではパネトロン社扱い)である。カット写真に見るように、この4ビットCPUは16ピンのセラミック・パッケージに収められており、これを2048ビットのROMチップと320ビットのランダム・アクセス・メモリ(RAM)チップなどと組み合わせれば、マイクロ・コンピュータが構成できるようになっている」

 石田の論文を読んだ安田は、いつもながらの彼のアンテナの鋭さと情報の早さとに感心させられた。

 だがその時点では、安田の興味は自分自身のシステムを作り上げることに集中して向けられていた。

 いわば脳細胞だけをパッケージに収めた8008を動かして実際に機能を確認していくためには、脳に指示を送り込み、処理した結果を脳から引き出してくる仕掛けが必要だった。安田はスイッチとランプを入出力装置としたシステムの手作りに取りかかった。トランジスターと小規模な集積回路を組み合わせて電卓を作った経験はあったが、さすがにまったく新しいマイクロコンピュータの使いこなしには苦労させられた。それでも11枚のプリント基板を駆使し、主記憶は1Kバイトの手作り1号機を完成させることができた。

 安田が8008マシンを仕上げて間もなく、1974(昭和49)年9月号の『トランジスタ技術』には「製作*マイクロCPU」と題した4004を使ったシステムの自作記事が載った。

 「これまで一握りの技術的なリーダーや官僚たち、大企業のエリートによって独占されていたコンピュータの世界に、マイクロコンピュータの誕生が引き金となって草の根からのもう1つの流れが生まれるのではないか」

 安田のうちにコンピュータ社会論の新しいテーマが浮かび上がってくるのと呼応するように、『ポピュラーエレクトロニクス』の1975年1月号がアルテアの特集を組んだ。さっそくMITSあてに注文を出した安田は、かつてラジオの世界で巻き起こった大衆運動が、マイクロコンピュータを核として再び湧き上がるのではないかと考えるようになった。

 日本のラジオ放送は1925(大正14)年に始まったが、その直後から多くの人々が受信機の手作りに挑みはじめた。アマチュアのラジオ作りは、その後知的な趣味の世界へと発展を遂げ、無線通信機器やテレビへとそのテーマを拡張していった。草の根からのエレクトロニクスの大衆運動は、ラジオやテレビの文化が花開くいしずえとなった。

 ではマイクロコンピュータが引き金となってマシンの手作り運動が広がっていったとき、その先には果たしてどのようなコンピュータ文化が育つのか。安田はその果てを、見てみたいと考えた。

 安田はコンピュータ産業の業界誌的性格の強かった『コンピュートピア』誌の編集長を口説き落として、マイクロコンピュータを使ったシステムの自作記事の連載を決め、1975(昭和50)年7月から執筆に着手した。対象は、ほとんど例外なくハードウェアへの知識を欠き、結果的にメーカーにマシン一式を押しつけられて、安くてすぐれたサードパーティーの周辺機器を使うこともままならないソフトウエア技術者に置いた。

 「マイクロコンピュータを使えばハードウェアを学び、コンピュータを作ってしまうことすら可能になる。こうした試みによって、極端なハードとソフトの分業化を超えて、より健全なコンピュータとユーザーとのあり方が実現できるのではないか」

 そう考えた安田は、1年の予定でモトローラの6800を使ったシステムの自作にいたるスケジュールを組んだ。「マイ・コンピュータをつくろう」と題した記事の連載は、9月号から始まった。

 見届けたい未来を素早く手繰り寄せるには、大衆運動の旗を振るのが近道だろうと安田は考えた。

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