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パソコン創世記
第2部 第5章 人ひとりのコンピュータは大型の亜流にあらず
1980 もう1人の電子少年の復活

テレビカナタイプ

富田倫生
2010/6/28

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本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、日本のパソコン業界黎明期に活躍したさまざまなヒーローを取り上げています。普段は触れる機会の少ない日本のIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部)

本連載は『パソコン創世記』の著者である富田倫生氏の許可を得て公開しています。「青空文庫」版のテキストファイル(2003年1月16日最終更新)が底本です。「青空文庫収録ファイルの取り扱い規準」に則り、表記の一部を@ITの校正ルールに沿って直しています。例)全角英数字⇒半角英数字、コンピューター⇒コンピュータ など

パソコンは
大型のエピゴーネンだったのか?

 〈結局は何だったんだろう〉

 成功のレールに乗ってひた走りはじめたPC-8001を前に、松本は自分自身をマイクロコンピュータに向かわせたものはなんだったのかを、繰り返し問いなおすようになっていた。

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 小学校2年生で、初めて本格的な真空管式のラジオを作った。部品をそろえ、回路図に従って組み立てていく作業には、小さな世界を一から自分の手で作り上げていくような手応えがあった。

 高校2年生の夏、手作りのテレビカメラがすくい取ったいびつな世界がてのひらの調節の技によってその姿を正しはじめたとき、松本は再び、電子回路に魂を吸い取られるような一瞬を味わった。

 マイクロコンピュータを使って自分だけのマシンを作り上げたとき、松本の胸に再びよみがえったのは、世界をその手に収めた瞬間の喜悦だった。論理によって腑分けされ、手順によってコンピュータの中で再構成された世界は、創造主である松本の命ずるままに動き、松本の命ずるままに姿を変えた。

 だが、なめらかなプラスチックのケースに閉じ込められたPC-8001は、ユーザーの視線が筺体の中に及ぶことを拒否した、IBMの大型コンピュータのような美しいブラックボックスだった。

 冷めかけた心は、完成品のパーソナルコンピュータを支える技術の出自をたどることで、いっそう熱を失っていった。

 テレタイプ、ブラウン管式のディスプレイ、フロッピーディスク、そしてベーシック、OS――。あらためて振り返ってみれば、マイクロコンピュータが貪欲に呑み込んできたほとんどの要素は、従来のコンピュータ技術の枠の中で生まれたものだった。

 〈結局は、セールスマンだったのではないか。それも古いコンピュータの世界に転がっていた言語とOSを、パーソナルコンピュータという新しい包装紙でくるんだだけの、焼き直しの商売だったのではないか。

 この1年、自分は何1つとして新しいものを作り上げなかった。作る代わりにやっていたのは、大型のものを焼き直したソフトウェアのセールスではなかったか〉

 そう思いいたったとき、松本はアスキーマイクロソフトの日々につきまとっていた居心地の悪さの根にあるものをつかみ取った。

 〈ここでは何も作れない〉

 松本はPC-8001の誕生に、希望よりはむしろ閉塞感を覚えていた。


 作ることへの飢えが頭をもたげはじめた1979(昭和54)年の夏、松本は前橋高校で同級だった黒崎義浩から連絡を受けた。

 黒崎は友人たちとともに、脳性麻痺の障害を持った子供が使う、意思表示の道具を作ろうと準備を進めているという。エレクトロニクスを生かしたいというこの機器の開発に、力を貸してくれないかと黒崎は求めてきた。

 電話口から漏れてくる黒崎の言葉は、松本の耳に染み入るように涼しく響いた。

 大学時代、精密機械工学科で働いていた当時、松本は研究室が取り組んでいたサリドマイド児のための高度な機能を備えた義手の開発に携わったことがあった。このときの義手は重くなりすぎたために結局実用化されなかったが、肉体的なハンディキャップを背負った人にエレクトロニクスが貢献できるはずだとの確信は、松本の内に実践を通して育っていた。

 松本は黒崎の友人でこの試みに共感していた玉城重信と玉置晴朗とともに、群馬県桐生市の桐生第一養護学校を訪ね、脳性麻痺の子供たちにとってどんな道具がふさわしいのかを探りはじめた。

 しゃべれない子供たちは、これまでもっぱらひらがなを書き込んだ表を1字1字指して、意思を表わしていた。障害の軽い子供は、カナ文字タイプライターのキーボードの上に、1つ1つのキーに合わせて穴を空けた板を載せ、鉛筆などでつついて文章を書いた。まとまった文章を一度に作ってしまえるタイプライターの使える子供は、それだけ豊かに自分を表現することができた。だがタイプライターの恩恵にあずかれるのは、ごく一部の障害の軽い子供に限られた。松本たちは、このカナ文字タイプライターを電子化し、重い障害を負った子供でも使いこなせるようにしたいと考えた。

 本体はマイクロコンピュータを使ったシステムで組み、テレビとのインターフェイスを付けて「あいうえお」の文字を順に画面上に表示していく。そして選びたい文字まで来たところで子供たちに合図してもらい、文字を確定する。この繰り返しで文章を作っていく装置を、松本たちはごくシンプルに「テレビカナタイプ」と名付けた。

 テレビカナタイプの本体は、これまでマイクロコンピュータのシステムを何度も設計してきた松本にとっては、お手の物だった。画面上に「あいうえお」を順に出していき、確定された文字を引き取って文章を続けていくプログラムは、玉城重信が中心になってすぐに書き上げた。ただし子供たちの意思を受け取る入力装置に関しては、試行錯誤が必要になった。

 子供たちの障害は、1人ひとりみな異なっていた。片足でけ飛ばして合図を送る装置、息を吹きかけて文字を止めるもの、カメラのシャッターを押すのに使われるレリーズを利用し、軽く握ってタイミングをとるタイプなど、いろいろな器具を開発するたびにテレビカナタイプを利用できる子供が増えていった。

 繰り返し養護学校に通っては子供たちと付き合ううちに、松本は彼らの言葉をしだいに聞き取れるようになった。通いはじめた当初はさっぱり受けとめられなかった、子供たちのしぐさや瞳の色や声音の奥にある意思が、やがて松本の心で意味を結びはじめた。彼らの心に息づいている豊かな感情を生き生きととらえられるようになっていったとき、松本はアスキーマイクロソフトでソフトウェアのセールスマンとして働き続ける気持ちを最終的に失った。

 西にそのままの気持ちを話し、辞職する旨を伝えた。

 会社に籍を置いてからも原稿の仕事は続けてきたし、技術的なコンサルタントを引き受けているところもあり、仕事に飢える不安はなかった。

 アスキーマイクロソフトからの給料は、10月まで振り込まれてきた。

 「作れないからやめたい」という松本を、西は無理に止めようとはしなかった。

 作ることへの乾きは、西の内にもあった。

 マイクロソフトとの提携を境に、目まぐるしく事業が拡大していく中で、作ることの喜びは西のてのひらからも砂のようにこぼれ落ちていた。

 テレビカナタイプには、最終的にはテレビのスイッチを入れる機能に加えて、部屋の照明をオンオフする機能まで付けて完成させた。小さなプリンターも、本体に組み込んでみた。作ったのは1台きりだったが、桐生第一養護学校では、いろいろなタイミング合わせの装置と組み合わせて、子供たちが幅広く使ってくれた。自分たちの作業はあくまでボランティアと考えれば、テレビカナタイプは1台4万円程度で作れるはずだった。これ以降、松本たちはこの装置をまとめて作らせてくれるスポンサーを探して動いたが、結局この試みは実を結ばなかった。

 だがテレビカナタイプに取り組んだ経験は、失いかけていたマイクロコンピュータへの熱を再び松本の内によみがえらせた。この技術が圧倒的にコンピュータを安くするのなら、これまではとても救いえなかった領域にマシンによる支援の手を届かせることができるはずだった。理屈としてはこれまでも当然と受けとめていたそうした発想を、松本はテレビカナタイプの開発を通して確信するようになった。そしてこの装置の開発を通して出会い、マイクロコンピュータへの確信を共有した友人たちと、松本はその後もともに歩み続けることになった。

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