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| 第2部 第6章 魂の兄弟、日電版アルト開発計画に集う |
| 1983 PC-100の早すぎた誕生と死 |
Windowsプロジェクト
富田倫生
2010/7/9
| 本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、日本のパソコン業界黎明期に活躍したさまざまなヒーローを取り上げています。普段は触れる機会の少ない日本のIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部) |
| 本連載は『パソコン創世記』の著者である富田倫生氏の許可を得て公開しています。「青空文庫」版のテキストファイル(2003年1月16日最終更新)が底本です。「青空文庫収録ファイルの取り扱い規準」に則り、表記の一部を@ITの校正ルールに沿って直しています。例)全角英数字⇒半角英数字、コンピューター⇒コンピュータ など |
Windowsプロジェクトは
日電版アルトで加速できる
仕様検討の初期段階で西の頭にあったのは、カラー版のマッキントッシュをMS-DOSベースで作るイメージだった。
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西はかねてから、アルトの子供のアウトラインを100万を意味する「M」をキーワードとして表現していた。
〈カラー表示の画面の解像度は、1000×1000ドットのミリオンピクセル。メモリーは1Mバイト。加えてこのマシンには、毎秒1Mビットの伝送能力を持つOMNIネットと呼ばれるネットワークの技術を盛り込んで、価格も1M、つまり100万円とする〉
このMマシンのイメージには、じつに洗練されたコンパクトな筺体にすべてを収めたマッキントッシュのプロトタイプを西が見たことで、一体型というもう1つの要素が付け加えられた。マッキントッシュは512×342の解像度にとどまっていたが、西は日本語を扱う以上、最低でも縦横倍程度のドット数は必要となると考えた。アップルはマッキントッシュに、OMNIネットに似通った開発コードネーム「スクールバス★」というネットワーク技術を用意していたが、西はより伝送能力の高いOMNIネットの採用を念頭に置いていた。
| ★製品段階では、230.4Kビット/秒=0.2304Mビット/秒のApple Talkと名付けられた。 |
マッキントッシュを見たことは、確かに西のイメージにいくつかの影響を与えた。だが西のMマシンとマッキントッシュとのあいだには、原点に決定的な発想の違いがあった。
スティーブ・ジョブズがアップルというハードウェアメーカーのトップであったのに対し、複数のマシンの作り手たちに基本ソフトを売り込むマイクロソフトの副社長という立場にあった西は、対価を支払ってくれれば誰もが利用できるソフトウェアのモジュールによって、アルトの子供の環境を実現しようと考えていた。
このモジュールは、MS-DOSの穴を埋めるという点でも、大きな役割を演じてくれるはずだった。
OSとアプリケーションを今後伸ばすべき2つの柱に据えているマイクロソフトにとって、守備範囲にないグラフィックスを取り扱うことでMS-DOSが互換性の基盤として機能せず、結果的にアプリケーションを個々のマシンごとに手直しせざるをえないという事態は、最悪のシナリオだった。
ビル・ゲイツはIBMがPCを発表した直後の1981年の秋には、異なったハードウェアのビデオ表示機構の差をならす、ソフトウェアによる仕掛け作りを進めるよう指示を出していた。MS-DOSはアプリケーションとマシンとのあいだにはさまって両者を取り持ち、文字と数値の範囲内では互換性の基礎として機能することができた。ゲイツは同様にアプリケーションとハードウェアのあいだに割って入ってビデオ機構の差をならし、MS-DOSを補ってグラフィックスに関しても互換性の基盤を提供するモジュールが必要になると考えていた★。
| ★こうした発想を原点とした視覚的操作環境を実現するためのモジュールを、マイクロソフトはその後Windowsと名付けて、パーソナルコンピュータの標準へと押し上げていく。このWindowsにつながるアイディアを、マイクロソフトがどの時点から育んできたかに関して、『帝王の誕生』は興味深い証拠を示している。 同書によれば、アップルのマッキントッシュ向けにアプリケーションを書く契約をビル・ゲイツが交わしてから3週間もたっていない、1982年2月14日、「シアトルタイムズ」紙はマイクロソフトで撮ったゲイツとポール・アレンの写真を掲載した。彼らの背後に写っているホワイトボードには、一見すれば無作為な数字や記号が並んでいる。しかしその右上の隅には、戦略的な意味を持つ「Window manager」という書き込みがあり、同書はその写真を転載している。だが、このプロジェクトをスタートさせるきっかけの1つとなった、日本電気版のアルトの子供、PC-100に関する記述は、『帝王の誕生』にはない。 |
すでにスリー・リバース・コンピュータのPERQを知り、ゼロックスの発表したスターに驚かされ、アップルが進めつつあるマッキントッシュの開発計画に関与していたビル・ゲイツは、アルト型の使用環境が将来の重要なテーマとなることを認識していた。PCへのOS提供をゲイツに決断させ、将来のビジョンを分かち合うパートナーにのし上がっていた西和彦もまた、アルトの子供への挑戦意欲を強く抱いていた。
だがインターフェイスマネージャーと名付けたグラフィックスの互換性確保を目指すモジュールの開発をスタートさせた時点では、ゲイツと西はこのプロジェクトをウィンドウやメニューを備えたアルト型の操作環境を実現するところまで拡張しようとは考えていなかった。
発表されたばかりのPCの処理能力と解像度では、アルト型環境を動かすことはとても無理と思えた。
インターフェイスマネージャーの想定ユーザーは、フロッピーディスクドライブをつなぎ、オプションのMS-DOSを利用するためにメモリを64Kバイトからマシンの上限の256Kバイトまで拡張した人に置いたが、それでもアルトを目指すにはハードウェアがあまりに貧弱すぎた。
あくまでハードウェアメーカーにソフトウェアを売り込む立場にあったマイクロソフトは、現状のマシンのパワーを無視してOSを一方的に機能強化する道は選べなかった。
もしもゲイツと西がアップルのリーダーであったのなら、彼らはジョブズがそうしたようにハードウェアとソフトウェアを同時に革新して、リサやマッキントッシュを生み出すことができた。しかし彼らは、MS-DOSの最大の顧客であるPCの現状から、乖離することができなかった。
にもかかわらず、ゲイツと西は1982年春、インターフェイスマネージャーを拡張して、アルト型の操作環境を目指すことを決断した。
彼らの背を押したのは、ビジカルクの発売元となって急成長を遂げたビジコープによる、VisiOnの影だった。MS-DOSマシン用のグラフィックス操作環境モジュールを同社が開発中との情報を得たゲイツと西は、手をこまねいていればパーソナルコンピュータの使いこなしの基本ルールを定める操作環境の方向付けに関して、マイクロソフトが発言権を確保できなくなると恐れた。
その時点でPCが備えていた640×200の解像度は明らかに不足していたが、のちにWindowsと名付けられることになるこのプロジェクトをスタートさせるにあたって、西は隠し玉を仕込んでいた。
日本電気に参加を求めることを前提に準備を進めていたアルトの子供を、西はWindowsの先駆けとなるマシンにしようと考えた。
MS-DOSに追加してマシンをアルト型に変身させるWindowsにとっての最大の顧客は、やはりIBMのPCとなるだろう。だが現状では、PCはWindowsマシンとしてはあまりにも非力に過ぎる。そこでグラフィカルなユーザーインターフェイス(GUI)を利用することを当初から意識して、ハードウェアを徹底的に強化したMS-DOSマシンを作り、そこにWindowsを載せる。白黒のマッキントッシュに対して、このマシンにはカラーの表示能力を持たせる。この日本電気によるカラー版マッキントッシュを成功させることができれば、Windowsをアルト型操作環境の強力な標準候補として押し出し、ひいては本命であるPCのグラフィックス強化の歯車も速く回すことができるだろう。
そしてさまざまなマシンにMS-DOSとWindowsのセットを売り込むことができれば、マイクロソフトは大きな見返りとともに、異なったマシンにアプリケーションの互換性の基盤を提供するという重要な役割を果たすことができると望みえた。
このきわめて重い役割を負ったマシンの開発計画を、マイクロソフトにとっての恩人の1人である日本電気の渡辺和也たちに委ねるという西の提案に、ビル・ゲイツは異論を差しはさまなかった。
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パソコン創世記 バックナンバー
- 第1回 はじめに―― 1952年に生まれたことへの感謝
- 第2回 オモチャマシンの革命劇
- 第3回 弱小「マイクロ部」の誕生
- 第4回 草むしりと評価用キットの日々
- 第5回 アメリカからの風
- 第6回 簡易教材開発作戦
- 第7回 開幕のベル響く
- 第8回 ビット・イン日誌に記された兆し
- 第9回 TK-80への不満
- 第10回 個人用コンピュータ元年
- 第11回 大いなる誤解
- 第12回 二筋の道
- 第13回 TK-80上の革命
- 第14回 新人類の加入
- 第15回 もう1つのベーシック
- 第16回 ビル・ゲイツとの出会い
- 第17回 苦しい決断のとき
- 第18回 逸脱への歯止め
- 第19回 決断のとき
- 第20回 ケチケチ体制のスタート
- 第21回 狼煙上がる
- 第22回 日電PC帝国誕生
- 第23回 力はいずこより
- 第24回 タケシ、君の彼岸としてのパーソナルコンピュータよ
- 第25回 響く歌声
- 第26回 逸脱分子の「うた」
- 第27回 大学受験に背を向けた日
- 第28回 浅間山荘事件と「警察官募集」の貼り紙
- 第29回 警察学校よさらば
- 第30回 明日を食らう虫
- 第31回 失われたユートピアを求めて
- 第32回 ヌエのような男
- 第33回 「陽」の世界への啓示
- 第34回 再び春日山
- 第35回 愛という、たよりない言葉
- 第36回 電話工事の仕事をやめた
- 第37回 鶏が鶏として生きる
- 第38回 新島淳良が去る
- 第39回 太宰治と谷川俊太郎
- 第40回 悪魔の左手
- 第41回 マイコン基礎講座
- 第42回 マイコンのお目ざめプログラム
- 第43回 機械語に正面から取り組む
- 第44回 TK-80とタケシ
- 第45回 タケシ、ソフト開発の仕事を始める
- 第46回 テクノロジーよ、人に向きなさい
- 第47回 日本電気の動き、タケシの足跡
- 第48回 アラン・ケイのダイナブック
- 第49回 〈思考のおもむくままに〉情報を取り出せる装置
- 第50回 電子式数値積分計算機=「ENIAC」
- 第51回 「連想索引」という新しい仕組み
- 第52回 マウスと名付けた小さな箱
- 第53回 エンゲルバートと国防省高等研究計画局
- 第54回 アラン・ケイとFLEX言語
- 第55回 タブレットと電子ペン
- 第56回 Smalltalkの萌芽
- 第57回 紙に勝るディスプレイ
- 第58回 後藤富雄、1967年日本電気入社
- 第59回 DECのPDP-8
- 第60回 トレーニングキット「TK-80」
- 第61回 ドクター・ドブズ・ジャーナル
- 第62回 組み立てキット アルテア8800
- 第63回 アルテアの限界
- 第64回 MITSの頼りない実在
- 第65回 デイジー
- 第66回 レイクサイドスクール
- 第67回 13歳のビル・ゲイツ
- 第68回 ポール・アレンとアルテア
- 第69回 マイクロソフトの誕生
- 第70回 アルテアとS-100バス
- 第71回 波に乗りはじめたマイクロソフト
- 第72回 パーソナル・コンピュータの時代へ
- 第73回 日本電気のコンピュータ事業
- 第74回 浜田俊三とNEC
- 第75回 日本電気のコンピュータへの取り組み
- 第76回 「電子計算機の気持ちが分かる」
- 第77回 「これで世の中は変わる」
- 第78回 3年ぶりの大卒新人
- 第79回 SENACプロジェクトの遺産
- 第80回 NEAC-1103
- 第81回 コンピュータ技術本部第2開発部
- 第82回 システム100
- 第83回 オフコン・ディーラー
- 第84回 マイクロコンピュータ N6300シリーズ
- 第85回 システム100のLSI化
- 第86回 「このぶんで行けば黒字が出せる」
- 第87回 NECインフォメーションシステムズ
- 第88回 パソコンが仕事の道具に生まれ変わる
- 第89回 アメリカのパソコンは仕事の道具
- 第90回 シーモア・ルービンスタイン
- 第91回 ゲアリー・キルドール
- 第92回 キルドールのCP/M
- 第93回 ワープロの需要
- 第94回 マイケル・シュレイヤー
- 第95回 3人の育て親
- 第96回 マイコン入門
- 第97回 NECビット・イン
- 第98回 NECマイコンショップ
- 第99回 新日本電気
- 第100回 アストラの行く手を阻むもの
- 第101回 16ビットパソコンの条件
- 第102回 IBMの誕生
- 第103回 新世代機 システム360
- 第104回 DECの躍進
- 第105回 世界第2位のコンピュータメーカー
- 第106回 IBM、パソコン市場に参入する
- 第107回 SCP-DOS
- 第108回 「IBMを踏み台にして大きくなれ」
- 第109回 「本気でウェルカム、IBM殿」
- 第110回 マイクロソフトの拒絶
- 第111回 パソコン市場の爆発的な成長
- 第112回 西和彦
- 第113回 パソコン革命の寵児
- 第114回 新雑誌 「I/O」
- 第115回 塚本慶一郎
- 第116回 西の違和感
- 第117回 アスキー出版設立
- 第118回 西和彦、ビル・ゲイツに会う
- 第119回 古川享
- 第120回 アスキー出版、マイクロソフトと提携
- 第121回 上げ潮の男
- 第122回 MS-DOS
- 第123回 京都セラミツク社長、稲盛和夫
- 第124回 このマウスというヤツが
- 第125回 PARC
- 第126回 ジェフ・ラスキン
- 第127回 開発コードネーム「リサ」
- 第128回 リサのインターフェイス
- 第129回 アルトの子供たち
- 第130回 サイバネット工業という隠し玉
- 第131回 西のハンドヘルドコンピュータ
- 第132回 マイクロソフトに行って働いてみる?
- 第133回 ロータス 1-2-3
- 第134回 浜田の苦悩
- 第135回 早水潔と小澤昇
- 第136回 裏の仕事
- 第137回 三菱電機のマルチ16
- 第138回 「互換ベーシックを半年で書いてくれ」
- 第139回 古山良二
- 第140回 古山、OSと出合い、戸惑う
- 第141回 ソフトがハードの従属物ではなくなった日
- 第142回 N-10プロジェクト
- 第143回 卓上型オフィスコンピュータ「システム20/15」
- 第144回 勝負はアプリケーションが決する
- 第145回 「PCサブグループ」の要望
- 第146回 悪夢の互換ベーシック開発
- 第147回 古山を苦しめる96Kバイト
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- 第152回 「キラーアプリケーション不足」という穴
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- 第156回 コンピュータ少年、プログラマになる
- 第157回 ジョブズ、ウォズニアックと出会う
- 第158回 ヒューレット・パッカード
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- 第161回 マイクロコンピュータから延びる道筋
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- 第163回 ピープルズ・コンピュータ・カンパニー
- 第164回 タイニーベーシックを自作するホビイストたち
- 第165回 「ホビイストへの公開状」
- 第166回 ソフトウェアの空白を埋める共棲
- 第167回 アップルコンピュータの誕生
- 第168回 ポール・テレル
- 第169回 ウォズニアック、カラーグラフィックスに挑む
- 第170回 1977年、アップルII デビュー
- 第171回 もう1人の電子少年、伊勢崎に生まれる
- 第172回 SF小説、ラッセル、テレビカメラ
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- 第179回 「マイコンの世界」、2人の若きタレント
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- 第185回 ベーシックの標準、OSの標準
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- 第187回 パソコンは大型のエピゴーネンにあらず
- 第188回 日本マイクロハード
- 第189回 独自技術を盛り込もうとするソニーの挑戦
- 第190回 MS-DOSの衝撃
- 第191回 ベーシックに閉じこもるか、OSに進むか
- 第192回 人の心、コンピュータ、インターフェイス
- 第193回 パーソナル・ダイナミック・メディアへの挑戦
- 第194回 柔らかなコンピュータ技術
- 第195回 Windowsプロジェクト
- 第196回 ハードウェアの中核はASICに凝縮せよ
- 第197回 PC-100と、新規開発すべきASICたち
- 第198回 グラフィックス強化と縦横兼用ディスプレイ
- 第199回 PC-9801が投げかけた疑問符と衝撃
- 第200回 マック、リサ、日本電気版アルトの開発競争
- 第201回 マイクロソフトの苦闘
- 第202回 「GUIを生かしたアプリケーションを!」
- 第203回 「ディスクベーシックの繁栄」という壁
- 第204回 孫正義と松田辰夫
- 第205回 日本ソフトバンク『Oh! PC』とPC-9801
- 第206回 PC-9801をOSマシンに変身させるシナリオ
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- 第210回 受託ではなく「漢字システム」で勝負を
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- 第221回 パーソナルコンピュータ事業の主役交代
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- 第225回 JXの大惨敗と、捨て身のDOS/Vという選択
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- 第228回 PC-9801の市場独占
- 第229回 ダイナデスクとデスクトップパブリッシング
- 第230回 マッキントッシュとページメーカー
- 第231回 歴史の歯車は回り続ける
- 第232回 西和彦とビル・ゲイツの別れ
- 第233回 フィリップ・D・エストリッジ
- 第234回 ハードウェアからソフトウェアへ
- 第235回 オープンアーキテクチャの夢
- 第236回 Windowsの長い道のり
- 第237回 Windows 1.0/2.0の苦境
- 第238回 ビル・ゲイツと西和彦の、遠い日の約束
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