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パソコン創世記
第2部 第6章 魂の兄弟、日電版アルト開発計画に集う
1983 PC-100の早すぎた誕生と死

孫正義と松田辰夫

富田倫生
2010/7/23

前回「『ディスクベーシックの繁栄』という壁」へ

本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、日本のパソコン業界黎明期に活躍したさまざまなヒーローを取り上げています。普段は触れる機会の少ない日本のIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部)

本連載は『パソコン創世記』の著者である富田倫生氏の許可を得て公開しています。「青空文庫」版のテキストファイル(2003年1月16日最終更新)が底本です。「青空文庫収録ファイルの取り扱い規準」に則り、表記の一部を@ITの校正ルールに沿って直しています。例)全角英数字⇒半角英数字、コンピューター⇒コンピュータ など

 日本ソフトバンクの松田辰夫は、ベーシックの現実とOSの理想を、古川とは対照的な角度から見ていた。

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 松田自身、日本の市場をアメリカ並みの幅と深みを持ったものに転換していきたいという意欲は人一倍強く持っていた。だが現実に、日本のパーソナルコンピュータがゲームマシンにとどまっているのなら、16ビットでもゲームからスタートするしかないと、松田は冷静にそう考えた。パッケージソフトの流通卸として設立された日本ソフトバンクに籍を置く松田には、理想や夢や期待を削ぎ落とした日本の市場の実体が、ありのままに見えていた。

 PC-9801が誕生して間もない1983(昭和58)年当時、市場の中心となっていたのはPC-8801をはじめとする8ビット機であり、東京の一部で日本語ワードプロセッサを謳った名ばかりの製品が細々と流れはじめてはいたものの、ソフトウェア市場の大半はゲームによって占められていた。

 1950(昭和25)年12月、富山に生まれた松田は、20歳で東京理科大学の夜間の物理学科に入った。1年の浪人を経験したあと、いったんは好きだったオートバイの仕事に就きたいとホンダオート富山に就職し、修理工として働きはじめた。だがもう一度考えなおして、働きながら大学で学ぶ道を選んだ。入学と同時に、ある建築会社の研究所で働きはじめた松田は、大学でも建築用に使う高分子の接着剤を専攻した。将来はこの分野のコンサルタントとして独立することを、松田は目標に置いていた。

 マイクロコンピュータから吹き出してきた新しい風に、松田はもっとも早い時期に気付いた1人だった。

 1975年9月に創刊された『バイト』や1976年1月が創刊号の『ドクター・ドブズ・ジャーナル』に目を通しはじめて間もなく、松田は研究室の作業にマイクロコンピュータを使ったシステムが利用できるのではないかと考えるようになった。アルテアに使われ、その後業界標準規格として広く利用されはじめたS-100バスを使ってマシンを自作してみた松田は、担当していた材料実験の制御にこうしたシステムを利用するようになった。アメリカから取り寄せている雑誌でCP/Mに関する情報を仕入れ、秋葉原の小さなショップでCP/Mが売られているのを見つけて、自分のマシンにドライブをつないでフロッピーディスクが使えるように改良を試みた。

 大阪大学のハッカーだった山下良蔵は、県立の医科大学に教員の職を得て、この時期、CP/Mをベースとしたマシンを組んでさまざまな医療用のシステム開発を試みていた。一方松田が籍を置いていた建築会社の研究所でも、建築環境の温度制御などに幅広くCP/Mマシンを利用していこうとするプロジェクトが進められつつあった。

 1980(昭和55)年、松田は目標としていたコンサルタントへの転身を図ろうと考え、会社をやめた。松田はまず、経営総合研究所というビジネスマネジメントの研修会社に入社して、フリーランスとして生き抜いていくためのビジネス上の基礎知識を身につけておこうと考えた。

 この学校に、1957(昭和32)年生まれと7つ年下の、孫正義というアメリカ帰りの青年がいた。

 佐賀県鳥栖市に生まれ、久留米大学附設高等学校に進んだ孫は、高校1年の夏にアメリカ旅行を経験した。この旅を通じて、アメリカのスケールの大きさと底の抜けたような自由に強く印象づけられた孫は、すぐにでもアメリカに留学したいと考えるようになった。県下有数の受験校の教師たちは強く休学を進めたが、孫は在日韓国人の両親の承諾を取りつけてさっさと退学届けを出し、1974(昭和49)年2月、アメリカに渡った。サンフランシスコの英語学校に半年通ってから、現地の高校に入った孫は、いったんホーリーネームズ大学に入学したあと、目標としていたカリフォルニア大学バークレー校の経済学部への編入を果たした。

 「学ぶためにアメリカに来たのだから、いっさいむだな時間は使いたくない」と徹底して勉強に没頭した孫だったが、コンピュータと〈発明〉にはあえて時間を割り振った。論理的に手順を組み立ててプログラムを組めば、狙ったとおりの小さな世界を築き上げることができるコンピュータは、精緻な知恵の結晶のように見えた。もう一方で孫は、1日に1つ、新しい創造をなすことを自らに義務づけて、発明ノートを埋めていった。

 マイクロコンピュータを使った「音声装置付き多国語翻訳機」は、ここから生まれたアイディアだった。電子辞書に音声の合成装置を組み合わせ、母国語で入力した言葉を外国語に変換して発音させるというこの装置を、孫はシャープに売り込んで事業化させることに成功する。当初から事業家として進むこと以外まったく考えていなかった野心家の孫は、大学卒業後、日本でビジネスを展開する手始めとして、マネジメントの基礎を身につけておこうと経営総合研究所の門を叩いていた(『ザ・ファーストランナー』田原総一朗著、筑摩書房、1985年、「若きヒーロー」)。

 目指すべき事業のイメージをさまざまに思い描いた孫だったが、本命は「パーソナルコンピュータ用のソフトウェアの流通」に置いていた。弱小規模ながらソフトハウスがつぎつぎと誕生し、ショップの店頭ではパッケージソフトが売れはじめていたものの、ソフトウェアの流通経路の整備はいまだに手つかずのまま放置されていた。パーソナルコンピュータの台頭によって、個々のユーザーが店頭で手にとって買う新しいソフトウェアの販売形態が生まれつつある以上、こうした動きに対応した流通経路の確立には大きなビジネスチャンスがあると孫は考えた。

 経営総合研究所で孫と出会った松田は、パーソナルコンピュータが世界を革新していくだろうというビジョンを彼と共有することができた。孫は松田が持っている技術的な知識を、流通のビジネスに生かしたいと考えた。松田もまた、建築のコンサルタントとして動きはじめる一方で、孫が起こすというソフトウェア流通の会社にも興味を持った。

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