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パソコン創世記
第2部 第6章 魂の兄弟、日電版アルト開発計画に集う
1983 PC-100の早すぎた誕生と死

日本語ワードプロセッサを開発し、全国区へ

富田倫生
2010/8/3

前回「受託ではなく『漢字システム』で勝負を」へ

本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、日本のパソコン業界黎明期に活躍したさまざまなヒーローを取り上げています。普段は触れる機会の少ない日本のIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部)

本連載は『パソコン創世記』の著者である富田倫生氏の許可を得て公開しています。「青空文庫」版のテキストファイル(2003年1月16日最終更新)が底本です。「青空文庫収録ファイルの取り扱い規準」に則り、表記の一部を@ITの校正ルールに沿って直しています。例)全角英数字⇒半角英数字、コンピューター⇒コンピュータ など

 飛躍をかけたジャストシステムの挑戦のきっかけを作ったのは、会社に遊びに来るようになっていた徳島大学歯学部の学生、福良伴昭だった。

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 友人の紹介でジャストシステムの小さな事務所を訪ねるようになっていた福良は、初子に手ほどきを受けてプログラミングに興味を持つようになった。普段何気なくやっている動作や仕事をいったん解きほぐし、再度コンピュータ言語で組み立てなおしてみると、意識の下に潜り込んでいる人間の思考の回路が、あざやかに浮かび上がって見えるように感じられた。問題を解決するために、手順を組み合わせていくアルゴリズムの視点を持つことを教えられ、アセンブラやC言語を初子から学んだ福良は、やがて教える側が驚くほどの構想力と繊細さ、緻密さをプログラミングに感じさせるようになった。

 初子に続くかけがえのない発展の原動力の芽生えを福良に感じとった浮川は、ジャストシステムの成長のシナリオを描くことで、貴重な人材を確保しようと考えた。

 ロジック・システムズの日本語処理システムの開発を進めていたこの年の夏、浮川たちはパーソナルコンピュータ用の日本語ワードプロセッサを開発し、全国区への飛躍の足がかりとしようと決意した。

 ターゲットは、10月になって日本電気が発表した16ビット機、PC-9801に据えた。開発作業は翌年の3月から5月にかけて集中して進められ、春の終わりまでには、〈光〉と名付けたプロトタイプに格好をつけるところまでこぎ着けていた。

 そんな時期、アスキーマイクロソフトに連絡を入れたのは、特長ある技術を打ち出そうともう1つ狙いをつけていた酪農管理システムに関する用件だった。


 乳牛からの搾乳量は、どのような飼料をどれくらい、どう与えるかによって大きく変わってくる。そのための管理技術はアメリカではコンピュータを利用して発展していたが、日本ではまだシステムの導入はほとんど手つかずとなっていた。酪農を営んでいる農家は数千万円単位とかなりの売り上げ規模を持っており、大きな設備投資を行いながら事業を展開していることから、浮川はコンピュータ導入の可能性があると考えた。

 そこで酪農機械を取り扱っている商社と組んで、管理システムの販売をもくろんだ。

 ハードウェアにはオフィスコンピュータではなく、三洋電機が1982(昭和57)年の7月に売り出したばかりのパーソナルコンピュータを選んだ。MBC-250と名付けられたマシンはZ80を使った8ビット機だったが、CP/Mを標準装備し、本体に640Kバイトのフロッピーディスクドライブを2台とディスプレイを組み込んだ一体型に仕上げられていた。Z80を2個組み込んで片方をグラフィックスと漢字の描画に専門にあたらせたMBC-250は、さまざまなアイディアの積み重ねによってじつに速いマシンに仕上がっていた。さらにこのマシンには、漢字ROMも標準で用意されていた★。

 ★MBC-250のメインの基板は増設スロットとこれをつなぐバスだけで構成されており、すべての機能をスロットに差し込むボードによって提供することで自由なハードウェアの構成と拡張が可能となるよう配慮されていた。アルテアのS-100バスを復活させた形のこの方式は、のちにIBM PC互換機メーカーとして成功するデル社のマシンにも採用された。このマシンの設計にあたって松本吉彦は、回路の安定的な動作に大きな意味を持っている増設スロットのグラウンドピンの数を、25本と思い切って多くとった構成を採用した。こうした選択の技術的な意味は、1988(昭和63)年6月号の『トランジスタ技術』に掲載された、松本自身による「システム・バスの研究」に詳細に解説されている。

 MBC-250に載せる酪農家用ソフトの開発言語には、CP/M上で使うベーシックコンパイラを選んだ。ベーシックコンパイラもやはりマイクロソフトのものが使いやすいと考えた初子は、使用の許可条件を問い合わせようとアスキーマイクロソフトに連絡を入れた。

 電話口に出た男があらためて古川と名乗り、「何か別の仕事を」と問いかけてきたとき、初子は思わず受話器を持ち替えた。

 アスキーの古川は、創業者の3人と並ぶ同社の顔だった。

 「日本語をやっていらっしゃるのなら、お話ししたいこともあるので東京にいらしたときに是非寄っていただけませんか」

 古川からそう求められたと聞かされた浮川は、すぐさま東京行きを決意した。

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