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パソコン創世記
第2部 第6章 魂の兄弟、日電版アルト開発計画に集う
1983 PC-100の早すぎた誕生と死

浜田俊三、PC-100を前にして当惑する

富田倫生
2010/8/19

前回「パーソナルコンピュータ事業の主役交代」へ

本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、日本のパソコン業界黎明期に活躍したさまざまなヒーローを取り上げています。普段は触れる機会の少ない日本のIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部)

本連載は『パソコン創世記』の著者である富田倫生氏の許可を得て公開しています。「青空文庫」版のテキストファイル(2003年1月16日最終更新)が底本です。「青空文庫収録ファイルの取り扱い規準」に則り、表記の一部を@ITの校正ルールに沿って直しています。例)全角英数字⇒半角英数字、コンピューター⇒コンピュータ など

PC-9801の栄光と
PC-100の静かな死

 まったく同じ性能のマイクロコンピュータを使いながら負担の軽いテキスト処理を中心にしたPC-9801と、はるかに負担の重くなるビットマップ処理に全面的に乗り出したPC-100を比較すれば、こと文字や数値の取り扱いに関する限りPC-9801ははるかに速いマシンだった。同じ漢字を扱うにしても、PC-9801が2バイト(16ビット)のコードで扱ってすむところを、縦横16ドットの点の集まりによってグラフィックスとして扱うPC-100では、16×16で256ビットと、それだけで16倍の情報量として扱わざるをえなかった。

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 こうした桁違いの負荷がかかることを踏まえ、PC-100には高速化のためのさまざまな回路上の工夫が盛り込まれていた。ただしそれでも、PC-9801に比べればテキストの処理には大きな差がついた。アルト型の操作環境がもたらす使い勝手の改善や、グラフィックスや音を取り込んだメディアとしての発展の可能性を、期待値も込めて積極的に評価しない限り、PC-100は確かに、性能の劣った遅いマシンと評価されかねない一面を持っていた。

 後藤や西や松本は、思いの満たしきれなかった点を残してPC-100の初代機の仕様を固めざるをえなかった時点から、すぐに改良に着手すべき点を確認しあっていた★。

 ★1983(昭和58)年3月、GUIをとりあえず先送りすると決定した時点で、TRONの開発チームは2段階からなる将来計画を持っていた。短期的な目標は、同年度末までにPC-100にGUIを間に合わせ、マルチツールのアプリケーションをそろえるところに置いた。もう一方で、チームはマシン自体を強化する計画を立てていた。

 スーパーTRON、もしくはX-2と呼ばれた次期機種には、8086-2(8Mヘルツ)2個、または80186(10Mヘルツ)を1個搭載し、白黒の解像度は1024×800ドットに引き上げることが目指された。同月、日本IBMは日本語ワードプロセッサと端末の機能を合わせ持つマルチステーションと位置づけて、5550を発表していた。開発チームはX-2で、5550を叩こうと考えた。

 チームはさらに、X-3と名付けた上位機種を、マイクロソフト版のUNIXであるXENIXをベースに開発しようと計画していた。X-2は、このX-3に接続されるワークステーションとしても機能するとされていた。68000ボードをオプションに用意することで、X-2自体によるXENIXへの対応も目指された。チームはX-2、X-3の主要な市場として、アメリカを視野におさめていた。

 標準装備を見送ったネットワークの機能を付け、フロッピーディスクを大容量化し、ハードディスクを付けた機種を用意する。さらにより速いマイクロコンピュータを採用し、グラフィックスの処理をいっそう早めるためのアクセラレータを開発する。

 そして何よりも、本来PC-100という体に吹き込む魂だったはずのWindowsを早急に載せる。

 だがPC-9801の立ち上げの先頭に立ったあと、パーソナルコンピュータ全体の販売促進に責任を持つポジションについていた浜田俊三は、PC-100を前にして当惑していた。

 グラフィックスはもちろん、テキストまでビットマップで扱うという方式は、浜田の目には8086の処理能力を無視した選択と映った。PC-100がアップルのリサと同じ方向を目指しながら、GUIを欠いたまま発表されたことにも、納得がいかなかった。PC-100の目指した世界を、視覚的操作環境を欠いた現状で実現しようとすれば、個々のアプリケーションごとにサードパーティーがGUIを作り込んでいかざるをえなかった。そのために必要な力量と投資を日本のソフトハウスに求めることは、あまりにも非現実的であると思えた。とすれば現実には、PC-100はMS-DOSマシンとして生きざるをえない。だが浜田はこれまで、アプリケーションへのOSのバンドルという秘策によって、PC-9801をMS-DOSマシンに変身させようと全力を挙げていた。

 MS-DOSマシンとして成功させるためのエネルギーを、共倒れの危険を冒してPC-100に振り分ける意欲を、浜田はまったく持たなかった。

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