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パソコン創世記
第2部 第6章 魂の兄弟、日電版アルト開発計画に集う
1983 PC-100の早すぎた誕生と死

歴史の歯車は回り続ける

富田倫生
2010/9/1

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本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、日本のパソコン業界黎明期に活躍したさまざまなヒーローを取り上げています。普段は触れる機会の少ない日本のIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部)

本連載は『パソコン創世記』の著者である富田倫生氏の許可を得て公開しています。「青空文庫」版のテキストファイル(2003年1月16日最終更新)が底本です。「青空文庫収録ファイルの取り扱い規準」に則り、表記の一部を@ITの校正ルールに沿って直しています。例)全角英数字⇒半角英数字、コンピューター⇒コンピュータ など

 ページメーカーをはじめとするグラフィックスの強みを生かしたアプリケーションの登場によって、マッキントッシュの視覚的な操作環境にあらためて幅広いユーザーが注目しはじめるもう一方で、マイクロソフトはWindowsを標準に押し上げることに手こずり続けた。

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 GUIの標準を欠いたままMS-DOSが使われ続ける中で、PC-100を原点として歩みはじめたダイナウェアとジャストシステムは、ともに自分自身でWindowsに相当する環境を用意する道を選んだ。

 当初ダイナウェアは1つ1つの製品に操作環境を作り込んでいたが、インターフェイスを組み立てる仕掛けを基本ソフトの側に用意したマッキントッシュでは、異なったアプリケーションのあいだでも同じような統一的な使い勝手の流儀が生み出されていた。

 ツールボックスを用意し、ソフトウェアベンダにインターフェイスのガイドラインを示すことで、アップルはマッキントッシュ用のすべてのアプリケーションに統一感を生み出そうと試みた。さらにマックペイントで描いた絵をマックライトの文章に簡単に貼り込めるといったデータの切り貼りの機能も、操作環境を基本ソフトに持たせたことによって提供されていた。

 1986(昭和61)年に出荷を開始したupシリーズの製品からは、ダイナウェアも、あらかじめ開発したダイナウインドウと名付けた基本ソフトに対応させて個々のアプリケーションを書く道を選んだ。ジャストシステムが開発して1989(昭和64)年の一太郎Ver.4から組み込んだジャストウインドウの狙いも、操作感の統一とアプリケーション間の連携を高めることに置かれていた。

 アプローチは違っていた。

 だがパーソナル・ダイナミック・メディアという鮮烈なイメージに一度撃たれた者たちはみな、同じ彼方の光を追い求めた。


 ジャストシステムの浮川和宣は、彼らをアスキーと結びつけるきっかけを作った三洋電機のMBC-250というマシンと、彼らのデビューの足がかりとなったPC-100を同じ人物が作ったことを知らなかった。

 ダイナウェアの竹松昇は、自らのコンピュータへの傾斜を決定的なものとした手作りシステムの製作記事の書き手が、自分のために用意されたとしか思えなかったPC-100の作り手であることを知らなかった。

 現実には彼らは一度として顔を合わせることはなかった。

 だが彼らすべては、コンピュータの歴史のある決定的な瞬間において志を共有した魂の兄弟たちだった。


 のちに振り返って大内淳義は、日本電気のパーソナルコンピュータ事業に対してもしも自分に何らか貢献するところがあったとすれば、唯一それはあのとき、あのタイミングで半導体に終戦を言い渡したことだったろうと振り返る。

 アメリカにおいては、標準の存在の意義を嫌というほど示したPCと、先進性の可能性をまざまざと見せつけたマッキントッシュは、IBMとアップルという対照的なそれぞれの強みを持った2つの企業によって担われた。一方日本では、PC-9801とPC-100という独自の可能性を持った2粒の種は、日本電気という1つの会社で芽を吹いた。

 「PC-100を伸ばせば伸びたのだろう」

 だが限られた会社の力をあの時点で1つに結集しえたからこそ、PC-9801のあれほどの圧倒的な勝利が実現したと大内は今、考えている。

 1994(平成6)年6月、PC-9801は累計で800万台の出荷を記録した。


 そして歴史の歯車は、今も回り続ける。

 PC-9801の大成功が繰り返しスポットライトを浴び続けるその一方で、日本電気がPC-100を捨てたことの意味は、時代の風景が新しい色を帯びるたびに、魂の兄弟たちの心の中で繰り返し問い直されるだろう。

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