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IT業界の開拓者たち

第1回 ハンバーガーとコークで世界を征服した男

脇英世
2009/2/2

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 ビル・ゲイツが、マイクロソフト帝国と呼ばれるほどに、マイクロソフトを巨大にし、また世界一の富豪となった過程は3期に分かれる。

 第1期は、1975年から1981年までであり、この間、マイクロソフトの成長の原動力は、ビル・ゲイツの書いたマイクロソフトBASICであった。マイクロソフト帝国は、ホビースト(マニア)の業界を征服し、海外特に日本のコンピュータ業界を征服した。ここで活躍したのが当時アスキーの社長だった西和彦である。

 第2期は、1981年から1990年までであり、この間のマイクロソフトの原動力は、IBMとMS-DOSである。マイクロソフト帝国は、IBMとのパートナーシップのもとで本格的ビジネスの世界へと広がり、全世界を征服することになった。この時期、ビル・ゲイツはすでにプログラマでなく、経営者に変身していた。そのらつ腕ぶりはあまりに有名である。

 第3期は、1990年5月22日からであり、ここからのマイクロソフトの成長の原動力はウィンドウズである。マイクロソフトはIBMと決別し、独自の帝国拡大へと向かう。マイクロソフトは連邦取引委員会(FTC)から、独占禁止法違反で調査を受けることになる。連邦取引委員会の調査は終了し、際どいところで違反の事実はないとされた。続いて司法省が独占禁止法違反で調査を開始したが、マイクロソフトは同意審決に応じ、「今後は不公正な商慣習を行わない」という内容の単なる誓約をするだけで独占禁止法訴訟を免れた。

 この後マイクロソフトは情報スーパーハイウェイ関連ビジネスへと乗り出していった。

 1975年から現在までの間に、IBMの従業員は40万5000人から20数万人へ縮小したが、逆にマイクロソフトは、わずか2人から1万数千人へ膨張している。ビル・ゲイツはナポレオンを崇拝し、ナポレオンに関する書物はほとんど読破したと伝えられるが、自分とナポレオンが二重写しになっているのだろう。当然のような気がする。

 ビル・ゲイツがフケ症であるとか、身なりにあまり構わない男であるとか、絶えずいすを揺らせる癖があるとか、すごいギャンブラーであるというような話は有名である。

 食べ物にもあまり頓着しない人で、何でも出されたものは食べる。好物はハンバーガーとチェリー・コークである。マイクロソフト社内では、コークをはじめとするドリンク類は無料で手にすることができるからだ。しかし、最近のビル・ゲイツの飲み物はチェリー・コークから最高級のドン・ペリニヨンへ進歩したらしい。

 金銭的に細かいという人もいるが、経営者たるもの当然だろう。写真機のような記憶力を持っているというのも伝説になっている。

 筆者自身、彼に何度か会ったことはあるが、声は少し甲高く聞き取りにくい。これは米国人にも聞き取りにくいらしい。外面的には、はにかみ屋のおとなしい人物である。マイクロソフトがどこまで伸びるのか分からないが、ビル・ゲイツが20世紀の生んだヒーローの1人に数えられることは間違いない。

■補足

 ビル・ゲイツは一見ひ弱でシャイで臆病そうな若者である。この外見に誰もが必ず引っ掛かった。しかし外見とは裏腹にビル・ゲイツの戦闘性と攻撃性は恐るべきものである。

 しかしライバル会社のたたき上げの重役たちは、子どもっぽくきゃしゃなやさ男のビル・ゲイツを必ずなめてかかる。lBMのジェームズ・キャナビーノが特にそうだった。どう喝と脅迫に加えて、たまさかの懐柔策を行使してビル・ゲイツを屈服させようとしたが、ビル・ゲイツはまったく動じなかった。かえってキャナビーノの混乱を誘い、キャナビーノをして、

 「ゲイツの頭にアイスピックをぶちこんでやりたい」

といわせるまでになる。負け犬となったのはキャナビーノの方であった。ルー・ガースナー会長の誕生に伴い、キャナビーノはIBMを去る。

 同じようなことはマイクロソフトを独占禁止法違反で告訴しようとした司法省のアンヌ・ビンガマン女史にもいえる。ホワイトハウスからの圧力により独占禁止法訴訟の和解工作の過程で、ビル・ゲイツのしたたかな抵抗に遭遇して、ついにいってしまった。

 「若造になめられてたまるか」

 これも負けだ。あくまでゲイツのようにクールでなければならない。敗れたアンヌ・ビンガマンは「これですべてが終わったわけではない」と声明しながら1996年秋、司法省を去った。

 過剰な戦闘性ということがマイクロソフトに対していわれるが、ともかくビル・ゲイツ率いるマイクロソフトはほかとの協調ということはまったく考えない。「われわれが標準を作る(We set the standards.)」がマイクロソフトのスローガンの1つだ。

 ふつうマイクロソフトと共同で何かをやるのは危険といわれている。複雑な契約文書があって共同経営の側が違反すればたちまち訴えられる。マイクロソフトが違反した場合は、たくみな引き延ばしとどう喝によってうやむやにされてしまう。そうした実例はいくらでもある。マイクロソフトには協調という精神はあっぱれ見事なまでに欠如している。

 ただ分かっていても自分だけは違うと思う敏腕経営者がこのわなにはまる。危ないと分かっているのだから近寄らなければよい。完全なアウトレンジ戦法で行けばやられるわけがないのだが、近寄ってやられてしまう。

 成り上がりの成功者は必ずといってよいほど同じパターンをたどる。壮麗に飾り立てたビクトリア朝様式の大邸宅を買い、運転手付きの派手な真っ白な外装で中が真紅の内装のキャデラックのリムジンに乗り、巨大なインテリジェント・ビルを建て、自家用ジェット機とスポーツカーを乗り回し、終日美食に明け暮れ、最後にブロンドの美人秘書と再婚しては消えていく。アダム・オズボーンしかり、ゲアリー・キルドールしかりである。

 ビル・ゲイツはかなり成功しても浪費と散財に走ることはなかった。むしろあくまで節倹にこれ努め蓄財に徹した。マイクロソフトの給料はあくまで安く、支出はあくまで切り詰めた。借金を嫌い、ひたすら銀行預金を増やした。これに父親譲りの法律という武器が加わる。

 いまビル・ゲイツはマイクロソフトの会長兼最高ソフトウェア・アーキテクトである。CSA(チーフ・ソフトウェア・アーキテクト)という。本人ですら自分がCSAであることを忘れていることがあるそうだ。講演の中で語っている。ビル・ゲイツがマイクロソフトの最高経営責任者であったのは、1986年から2000年1月までである。マイクロソフトの創業は1976年だから不思議に思うが、マイクロソフトが最高経営責任者という地位を設けたのは、1986年にマイクロソフトが株式を上場してからである。これは案外引っ掛かりそうだ。

 周知のようにビル・ゲイツは結婚して子どもが2人いる。慈善事業への膨大な寄付でも有名だ。

 2002年4月、マイクロソフトの独占禁止法訴訟では、自ら証人として出廷した。以前にビデオ証言をしたとき、否認と健忘症と言葉の定義によって引き延ばしと逃げ回りを繰り返した。いささか逃げ腰で男らしくないという批判を浴びたことへの挑戦であったかもしれない。法廷戦術上は不必要な出廷だっただろう。

 書面による宣誓供述書はA4にして100ページ程度、法廷での証言記録は数千ページにわたる。読んでみたが、あまり面白いものではなかった。

 わずかに宣誓供述書の第144項で、ネットスケープやサン・マイクロシステムズを批判してなぜネットスケープ・ナビゲータやJavaをOSとしなかったかといっていることが光るくらいだ。

本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の開拓者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。

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