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IT業界の開拓者たち

第53回 マセマティカを作った男

脇英世
2009/4/27

第52回1 2次のページ

本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、IT業界を切り開いた117人の先駆者たちの姿を紹介します。普段は触れる機会の少ないIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部)

本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の開拓者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。

ステファン・ウルフラム(Stephen Wolfram)――
マセマティカ開発者、ウルフラムリサーチCEO

 技術計算システムのマセマティカ(Mathematica)を開発することで、数値計算や数式処理、2次元・3次元の視覚化、テクニカルパブリッシングの世界に独自の道を切り開いたのが、ステファン・ウルフラムである。

 1959年8月、英国のロンドンに生まれたステファン・ウルフラムは、8歳でオックスフォードのドラゴン・スクールに入り、13歳で卒業した。父親は貿易業を営む一方で小説を書いており、母親はオックスフォード大学で哲学の教授をしていたという。ステファン・ウルフラム自身の語るところによれば、両親は彼のことを「救いようのないおかしな子ども」と感じていた。また「精神的に混乱していて、人生で成功するわけがない」と決めつけていたという。しかし、成績は抜群に良かったらしく、奨学金をもらって名門のイートン校に入学した。

 イートン校では、神童ぶりをいかんなく発揮している。出版はされなかったが、13歳で素粒子論の本を書いた。「サブアトミック粒子の物理学」「弱い相互作用入門」という表題であったらしい。しかし、結局出版されなかったのだから、コメントのしようもない。この人の経歴には、そういった部分が多い。

 ステファン・ウルフラムは、14歳でエリオット903Cコンピュータのプログラミングを始め、コンピュータの実験を開始する。コンピュータに取り組む年齢としては、そう早い方ではないだろう。わたしの大学でも、もっと幼いころからコンピュータに触れていた学生がいる。

 15歳になったステファン・ウルフラムは、最初の科学論文を書き上げた。この論文は16歳のときに出版されたが、本人は好きではなかったようだ。「あの論文はあまり面白くなかった。きれいとはいい難かった。わたしは、もう論文のコピーすら持っていない」と語っている。従って、論文の題名も定かではないが、ハドロン電子に関するものであったという。

 第2の論文は16歳のときに書かれた。「粒子が崩壊する際のニュートラルな弱い相互作用」という表題で、1976年に核物理学誌に掲載された。17歳でイートン校を去った。正式には卒業していない。ラテン語や古典の勉強が嫌いで、科学により惹かれていたからだという。

 ステファン・ウルフラムは、イートン校を去った後、オックスフォード大学に入学する。高校を卒業しないで、そのようなことが可能なのだろうかと思うが、可能であったという。入学した初日に1年生の講義に出たが、ひどいものだと感じたらしい。翌日、3年生の講義に出てみたものの、これも退屈極まりないものだった。結局、この天才は、大学での講義にはまったく出席しなかった。必要なことはすべて書物から学んだといっている。

 18歳になると、オックスフォード大学のラザフォード研究所の理論部門で働き始める。この年に、3番目の科学論文を書いた。ARPANETを使い始め、代数的計算システムに親しみ、さらに、オックスフォード大学の試験で首席となっている。アルゴンヌ国立研究所の高エネルギー理論物理学グループでも働き、重いクォーク生成の古典的論文を書いている。一見すると華々しい経歴のようだが、詳しく検討してみると、結局はオックスフォード大学も卒業していないことが分かる。つまり、この時点では中卒と同様である。

 ステファン・ウルフラムは19歳になると、ノーベル賞学者のゲルマンの招きで米国のロサンゼルス郊外にあるカリフォルニア工科大学の大学院に入学する。ここが理解に苦しむところで、高校も大学も卒業していないのに、名門カリフォルニア工科大学の大学院に入れるものだろうかと疑問に思う。しかし、ともかく本人の語るところによれば、カリフォルニア工科大学では、天文学と素粒子論の連関に気付き、素粒子論で成果を上げ、論文の数は10本を超えた。22歳のときには、科学論文は21本にまで達している。すさまじいものである。

 20歳のとき、カリフォルニア工科大学から理論物理学でPh.Dの学位を受けた。「われわれがトリックをやった」とゲルマンは語ったという。高校、大学、修士課程のすべてを飛び越して、いきなり博士号を取ったのである。

 ステファン・ウルフラムは、21歳でカリフォルニア工科大学の職員となった。正式の教員になったという記録がないことから、研究所員であったと思われる。

 ゲルマンから見ると、ステファン・ウルフラムの興味は、ゲルマンやファインマンが期待した素粒子論から少し外れていたようだ。実際、ステファン・ウルフラムの興味は、21歳ごろからSMP(シンボリック・マニピュレーション・プログラム)、セルラ・オートマトン、フラクタル理論へと広がった。このSMPは、MITのMacsymaやランド社のReduceに端を発するものである。ステファン・ウルフラムは大学院生のクリス・コールやティム・ショーを雇い、さらに半ダースほどの学生を雇ってSMPプログラムを開発させた。これがマセマティカの前身になった。ステファン・ウルフラムは、このSMPの販売権をロサンゼルスのインファレンス・コーポレーションにライセンスするが、カリフォルニア工科大学が、ライセンスの権利は大学にあると主張して問題になったらしい。大学の職員が大学内の施設で達成した研究成果なのだから、当然ライセンスの権利は大学側に属するという論理である。比較的早い時期にSMPのアイデアがありながら、マセマティカの商品化が遅かったのには、こうした理由もあったようだ。

 法廷外で和解が成立したものの、この事件でステファン・ウルフラムはカリフォルニア工科大学を去った。1982年のことである。体よく追い出されたという方が適切かもしれない。

 1983年、ステファン・ウルフラムはプリンストン高等研究所に移った。ここはアインシュタインやオッペンハイマーといった著名な研究者がいたことで広く知られている。プリンストン高等研究所における待遇は、上級研究員であるが長期メンバーという、分かりにくいものである。つまり、雇用期限を定めた非常勤扱いの研究員なのである。これには相当な不満を持ったようだ。

 プリンストン大学の高等研究所時代のステファン・ウルフラムは、1人閉じこもった孤独な男で、我慢ということをまったく知らず、誰にでも敵対する手に負えない若者であったらしい。この時代の伝説は多く、チョコレート中毒で1日100万枚のチョコレートを食べるというジョークがあった。また、ステファン・ウルフラムはゲームが嫌いであった。ゲームに負けるのが嫌いなだけでなく、時間の無駄と考えていたからである。

本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の開拓者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。

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