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第8回
起業家を目指し、修業を続けるエンジニア

遠竹智寿子
2002/4/26

就職する際に、これからは情報産業だと考え、ちゅうちょなくエンジニアになったという村中氏

■なぜ情報系企業を選んだのか

 いまでこそ忙し過ぎて、大好きな釣りにも行けない村中氏だが、元来アウトドア派であり、高校のときに始めたウインドサーフィンを続けたくて大学進学の道を選んだという。しかし、大学に入学後、なぜか自動車部に入部しレースに明け暮れる毎日だった。そんな村中氏なだけに、当時のコンピュータに対する印象は、「暗い!」「オタク」といったものであり、あまり興味も持っていなかったという。

 しかし、村中氏は就職先として情報系企業を選択し、エンジニアへの道を選んだ。その選択について尋ねた。「はやる業界は時代ごとに違うじゃないですか。それで、これからは何だろうと考えました。ちょうどバブル崩壊直後だったのですが、そのときは何となく情報産業かなと思ったわけです」と、その理由を語ってくれた。そして彼が選んだのが、当時設立間もないパッケージ開発を手掛ける某システム会社だった。「自分にとって未知の分野ですから、会社も新しい方が、少しでも初心者扱いされないで済むかなと思ったんです」と、笑いながら会社選択のポイントを教えてくれた。

■何も分からなかった新人時代

 村中氏は、入社後、オープンシステム部に配属された。しかし、配属されたが5月までは、関連会社が展開するスーパーの店舗販売研修に参加していたという。その後、部に戻って部内で“見習い”状態がしばらく続いた。当時、オープンシステムやダウンサイジングという言葉が出始めたころに当たるが、村中氏には、周囲が何をやっているか、何のプログラムを書いているかさえ分からない状態だった。

 村中氏はその当時のことを、「コピーを取るなどの雑務をしながら先輩の書いたコードを見たり、周囲にあった本を見たりして過ごしていましたね」と振り返る。実は彼以外の新卒での同期は、大学で情報処理を専攻していた者か情報処理関連のアルバイト経験者ばかり。そのため、ズブの素人は彼1人だった。

 9月に進行中のプロジェクトに参加することになった村中氏にとっては、そのときがコードを書く初めての経験となったという。先輩が書いたコードや参考書のサンプルを見ながら、似たような動きをする個所はそれをコピーして、後は見よう見まねでソースを書いた。「そのころは考え過ぎていました。まねされたと先輩にいわれないようにしなければならないと考え、コードを複雑にしてしまったことも何度もありました」。

 村中氏が参加したそのプロジェクトは、流通業界関係の通信手順パッケージ開発で、UNIX上でC言語を中心に作業が進められた。それは、流通業界の通信パッケージの先駆けとして、その後大手数社に導入されたもの。連日徹夜状態が続いたが、プロジェクトに参加して5カ月後には、一通りの仕事がこなせるようになっていたそうだ。

村中氏がかかわったWindows版の流通業界取引先オンラインシステムのパッケージ開発などで、さまざまなスキルを身に付けることができたという

■転機となったプロジェクト

 その後、開発の主流はWindowsへと少しずつシフトし、所属していたオープンシステム部は、SI部とパッケージ専門部に分割された。

 そのころ村中氏がかかわったのは、Windows版の流通業界取引先オンラインシステムのパッケージ開発とバージョンアップを含めたプロジェクトだった。このプロジェクトに2年ほど携わっていた。最初のプロジェクトでは、プログラムだけを担当していたのだが、このプロジェクトでは企画・調査をはじめ、基本から詳細設計、開発・テスト、導入・運用までのすべてにかかわった。技術面では、Visual C/C++、COBOL、Oracleのデータベースの知識が必要とされ、それを学んでいったという。さらに、このプロジェクトは社内だけでは無理が生じて外注も利用したため、外注の管理能力も必要となった。同プロジェクトは、最終的に小売業100社以上に対応したEDI企業間取引システムという開発成果を納品することができた。

 次に手掛けたプロジェクトは、同種のWindows版の流通業界取引先オンラインシステムのパッケージ展開であった。この種のパッケージ開発では、各企業への納品にはカスタマイズは常識のため、その対応に追われることになった。そのため、営業サポートやシステム提案に必要な交渉能力や企画力、提案力といったスキルも必要とされた。

 当時の業務内容とスキルについて尋ねると、「事業計画、外注管理、製品管理、さまざまな規模の企業に対応したカスタマイズやバージョンアップ時の対応や技術以外の面のスキルを、知らない間に身に付けていたのかもしれませんね」と語る。また、販売に直接携わる代理店教育をする必要があり、代理店を北は北海道から南は九州まで駆け回ったこともあるそうだ。

 その後、社内業務システムや社内パッケージ用Webサイトの開設も手掛けた。手作業業務の効率化と運用性向上のために、見積もり/受注、保守、製品管理、ヘルプデスクなどのシステム開発も行った。開発言語や利用するアプリケーション、OSは、Visual Basic、Access、Excel、Oracle、HTML、JavaScript、Linuxなど、次々と新しい技術を利用していった。

 インターネットが普及するに従い、Web版の企業間取引システムが必要とされたため、企画、調査、設計を行い、デモプログラム開発までを手掛け、「RETAIL TECH」や「NEC Expressフェア」などへの出展にも関与した。

■会社を辞めるきっかけとは?

村中氏が会社を辞めるきっかけは、会社の後輩の独立にあったという

 村中氏には、SEという職種が自分に適していたのかどうか、どのように考えていたのだろうか? 「好きとか嫌いとか、合っているかどうかなど、あまり深く考えていなかったですね。まあ、いま考えれば嫌いではなかったのでしょうね。ただ、そのころ担当していたのがパッケージ製品でしたので、バージョンアップのときの対応など、きりがない部分です。それを7年間続けてきて少し飽きてきたといったところはあったと思います」と述べる村中氏が、最終的に会社を辞めるきっかけになったことは何だったのだろう。

 システムエンジニアとして一通りの業務がこなせるようになったころから、フリーでの仕事を考えることがあった。企業に所属して仕事をするだけでなく、個人でどこまでできるのかを知りたかった。また、作成した資料が上司に承認されるまでのスピードの遅さなど、会社組織に対する不満もでてきた。そのようなことから、退社する2〜3年前からいつしか独立したいと考えるようになっていったという。

 そんな村中氏の気持ちを後押しし、決断をさせたものは、後輩が退社して会社を設立したことだった。彼からは「一緒にやりましょう」という話もあったが、そのときはもう少し組織の中で自分を試してみたいという気持ちが先に立った。将来独立・起業したいという気持ちを残したまま、村中氏は新たな世界に触れてみようと思った。そして、それまでの大阪ではなく、東京で勤務しようと考えた理由は、東京の方が仕事の受注が多いといった実感があったからだという。

配属先や担当 主な業務
オープンシステム部  通信パッケージソフトウェアの開発 C言語、UNIX、Motif、OPENLOOK、Informix、UNIXを使用したシステム開発
プロダクト事業部 1 流通業界企業間取引システムパッケージソフトウェアの開発 Visual C/C++、COBOL、Oracleを使用したシステム開発、外注管理、営業サポート、システム提案
2 営業SE Windows版流通業界取引先オンラインシステムパッケージの営業サポート、システム提案、業務管理
3 統括 Visual Basic、Access、Excel、Oracle、HTML、JavaScript、Linuxを使用した社内業務(見積もり、受注、保守、製品管理、ヘルプデスク)システム開発、社内パッケージ用ホームページ開設
4 HTML、JavaScript、SQLServerを使用したWeb版企業間取引システム企画
村中氏の某システム会社時代の主な業務

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最前線で必要なスキルとキャリアを知る! 第8回
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