第1回 よみがえったアップルの顔
脇英世
2009/5/12
当時のマッキントッシュの抱えていた問題は、あまりの楽天主義と偏狭さだった。「パソコンにはこれだけが必要で、これ以上何が必要か」という新聞広告があったが、128KバイトのRAM、片面フロッピーディスクだけでは、あまりに性能不足だった。さらに、ハードディスクを欠いており、拡張性はまったくなかった。当時米国にいたわたしは、これは駄目だという趣旨の記事を書いて、日本に送ったらボツになった覚えがある。
マッキントッシュは、需要予測も販売計画も生産計画も人員計画もずさんであった。その対策のため、本格的な経営者として雇われたのがペプシコから引き抜かれたジョン・スカリーだった。
当初勢いのよかったマッキントッシュの売り上げは徐々に鈍化していき、1985年初頭にはアップルは深刻な危機に直面した。その年、ジョン・スカリーのクーデターによって、ジョブズはアップルを追われることになる。このときなぜジョブズが弱気だったのか分からないが、スカリーのいうがままに追い出されてしまう。そしてアップルに敵対しないという、かなり過酷な条件をのまされる。法廷闘争をすればおそらく勝てたはずだが、ジョブズは涙を流すだけで、それをしなかった。これも不可解だ。
その後1993年、ジョン・スカリーも業績悪化とともに、結局アップルを追い出されてしまった。陰にいるベンチャー資本家たちが本当のアップルの経営者なのだが、表に出ない。そのぶん賢いのかもしれない。
1986年、心の傷も癒え、アップル株600万株を1株だけ残して売却したジョブズは、NeXTコンピュータの計画を進める(*2)。NeXTコンピュータというマシンは、ジョブズの美学のすべてをつぎ込んだ斬新なワークステーションだった。アップルとの競合を避け、UNIX市場への進出が計画されたのだ。
(*1)1株だけ残すというやり方は、スティーブ・ジョブズの好むところらしく、1997年6月、NeXTソフトウェアの売却で得たアップル株150万株も1株だけ残してすべて売却してしまった。 |
NeXTコンピュータの弱さは、パソコンと比べるとかなり小さいUNIX市場をターゲットにしたことと、光磁気ディスク(MO)の採用など、当時としてはあまりに斬新すぎて互換性を欠き閉鎖的になってしまったこと、そしてあまりに際限なくお金を使いすぎてしまったことだ。だがNeXTコンピュータ自体は、かなりの注目を集めた。
日本でもNeXTコンピュータ投入の際に、ジョブズが来日して講演したが、実に素晴らしいものだった。スティーブ・ジョブズの魅力が余すところなく展開され、見応えがあった。ワンマンショーといってもよいくらいのものだった。
1991年6月、NeXTコンピュータの経営は危機に瀕し、キヤノンは1000万ドルを3回緊急融資した。NeXTコンピュータの損失は、累積2億5000万ドルという巨費になった。ここでNeXTコンピュータに引導を渡す事件が起きた。1991年7月、IBMとアップルが技術提携を発表し、モトローラを巻き込んだ形でRISCチップである、パワーPCの開発と採用に向かったのである。旧式のモトローラ・チップに依存していたNeXTコンピュータの製品はアップルの上位製品どころか下位製品になってしまう可能性が生じた。またIBMとアップルの合弁になるタリジェントとカライダの成立は、直接的にはNeXTコンピュータに関係がないとはいえ、間接的には大いに打撃を与えるものであった。
1993年2月9日、NeXTコンピュータはNeXTキューブとNeXTステーションの生産を停止した。NeXTコンピュータは事実上終焉(しゅうえん)のときを迎えたのである。NeXTコンピュータの総生産台数は累積5万台であったという。
1993年11月、NeXTコンピュータはNeXTSTEPをオープンにし、OPENSTEPを開発することになった。続いて1994年、NeXTコンピュータはエンタープライズ・オブジェクト・フレームワーク技術を出荷し、1995年、WebObjectを公開した。1995年12月、NeXTコンピュータはNeXTソフトウェアと社名を変更した。
こうしてNeXTソフトウェアは細々と露命をつないでいたが、たまたまアップルが次世代OSコープランドの開発に失敗したため、1997年2月に奇跡が起き、NeXTソフトウェアは4億ドルでギルバート・アメリオ率いるアップルに買収された。スティーブ・ジョブズはギルバート・アメリオを追放し、瞬く間にアップルの実権を掌握した。スティーブ・ジョブズは不死鳥のごとくよみがえったのである。
■補足
ギリシャ神話の英雄オデュッセウスのように放浪の旅から帰ったスティーブ・ジョブズは、ギルバート・アメリオ、エレン・ハンコックを追放し、アップルのソフトウェア部門クラリスを再編吸収し、マッキントッシュ互換機のライセンスを停止し、ニュートンを廃止するなど大胆な改革の手を打った。
スティーブ・ジョブズは暫定最高経営責任者として君臨し、常任の最高経営責任者にはならなかった。スティーブ・ジョブズが常任の最高経営責任者になるのは、実に2000年1月になってからのことである。1998年3月スティーブ・ジョブズは自分の給料を年間1ドルとし、あとはストック・オプションとした。彼の美学に基づくものだろう。最初のころのストック・オプションは3万株とたいしたものではなかった。
スティーブ・ジョブズは給料1ドルを2000年になっても続けたが、ストック・オプションは2000万株に膨れ上がった。アップルの取締役会は1999年12月に、給料を受け取らないスティーブ・ジョブズに専用ジェット機を与える約束をしていたが、実際にジェット機が使えるようになったのは2001年度に入ってからである。
本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の冒険者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。 |
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