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IT業界の冒険者たち

第5回 ハイパーカードの生みの親

脇英世
2009/5/18

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 数カ月後、立ち直ったビル・アトキンソンが取り組んだのがハイパーカードである。これはオーサライジングツールであり、インフォメーションオーガナイザーである。最初のモックアップは、マックペイントのドキュメントとテキストファイルで作られた。ハイパーカードの70%はパスカル言語で書かれ、20%がアセンブリ言語で書かれていた。また、ハイパーカードはSmalltalkから、継承性の概念をもらった。

 ビル・アトキンソンはスカリーに対し、マッキントッシュにハイパーカードをバンドルするように懇願した。再度の挫折には堪えられなかったのだろう。1987年8月、すべてのマッキントッシュにハイパーカードがバンドルされることになった。ハイパーカードは極めて独創的な製品だった。瞬く間に大成功し、ビル・アトキンソンはたちまち伝説の人となった。カリスマとなったのである。

 しかし、専門家はハイパーカードはハイパーテキストではないとし、そのことがビル・アトキンソンを多少かたくなにした。よく考えてみると、ハイパーカードはネットワークでの対応が十分ではなく、ハイパーテキストとは呼びにくい。アップル文化は、マイクロソフトと同じく「われわれが標準を設定する」式のプロプライエタリ独自文化で、オープン性を重んじるネットワーク文化とは相入れない部分があるのだろう。

 ここに黒のタートルネック、黒のズボンと知性的な容貌に身を包んだ策士、マーク・ポラックが出現する。マーク・ポラックは1976年スタンフォード大学院で経済学修士号を、情報経済学でPh.Dを取得した。1977年、アスペン・インスティチュートのエグゼクティブディレクターになり、情報化社会を論じた。1983年プライベイト・サテライト・ネットワーク社を創立するが、不振に終わった。マーク・ポラックは1988年アップルに入社し、先進技術グループに参加する。

 マーク・ポラックはポケット・クリスタルの構想をアップルの人々に説いたが、誰にも相手にされなかった。しかし、マーク・ポラックがビル・アトキンソン、アンディ・ハーツフェルドを味方に加えると事態は一変し、アップルの指示の下でジェネラル・マジック社が設立されることになった。

 当初、ジェネラル・マジックのマジックキャップのモデルはビル・アトキンソンのハイパーカードで作られた。

 すべてがうまくいき過ぎた。アンディ・ハーツフェルドにスネークオイル(蛇の油売り、口上の得意な日本のガマの油売りのようなもの)と呼ばれ、ウォールストリート・ジャーナルに銀の舌を持つ悪魔と呼ばせたマーク・ポラックの弁舌はさえ渡り、綱渡りのような提携戦略を推し進めさせた。

 緊張感の欠落から、マッキントッシュ開発の際の、週90時間以上作業の伝説は消え、ビル・アトキンソンも2人の娘との家庭的な生活に多くの時間を割くようになった。ビル・アトキンソンは、ジェネラル・マジックに入ってから特に影が薄くなる。まだアンディ・ハーツフェルドの方が善戦している。

 従って開発は緩慢になり、スケジュールは遅延することになった。これでは本人たちも認めるとおり、良い製品はできない。

 ジェネラル・マジックにとって不幸なことの1つは、同盟軍のアップルがスティーブ・キャップスを中心にジェネラル・マジックと競合する製品であるニュートンを開発し始めたことである。スティーブ・キャップスはゼロックスで働いた後、アップルのLISA開発のためにアップルにやってきた。スティーブ・ジョブズがハイパーカード開発チームにスティーブ・キャップスを引き抜いた。

 マッキントッシュの開発は過激で、チームのメンバーはみんな燃え尽きた。アンディ・ハーツフェルドは、マッキントッシュ出荷前にアップルを辞めて去っていった。同じく燃え尽きたスティーブ・キャップスは、アップルを離れてパリに1年余り住んだ。その後、ニュートンの開発のためにアップルに戻ってきた。ニュートンはジョン・スカリーのプロジェクトだった。

 スティーブ・キャップスのニュートンのモデルは、皮肉なことにビル・アトキンソンのハイパーカードを使って作られた。ジェネラル・マジックのマジックキャップは電子メールマシンであったが、ニュートンはフォームベースマシンであった。1993年8月、ニュートンがマックワールドで発表された。しかし、ニュートンの事実上の推進者であったジョン・スカリーは1993年10月にアップルを辞めてしまう。主なきままにニュートンは苦戦を続けることになる。

 1994年1月、サンフランシスコのマリオットホテルで、ビル・アトキンソンとアンディ・ハーツフェルドによってジェネラル・マジックのマジックキャップとテレスクリプトが発表される。1995年2月10日、ジェネラル・マジックは株式を公開する。株価は1日急上昇したが、その後、急降下を続ける。

 マイクロソフトは手書き入力方式の開発失敗後、PDA市場からは手を引いていたが、マーク・ポラックはそれでもマイクロソフトを恐れていた。1996年6月、スティーブ・キャップスはアップルを去り、マイクロソフトに入社した。スカリーなき後、ニュートンは継子扱いであり、スティーブ・キャップスもアップルでは居心地が良くなかったのだろう。

 ジェネラル・マジックの業績は急速に悪化し、1996年9月18日マーク・ポラックと社長のロバート・ケルシュは辞職に追い込まれた。

 ジェネラル・マジックのマジックキャップとテレスクリプトは、インターネットの大波にのみ込まれた。実際ジェネラル・マジックのマジックキャップはウィンドウズ95用になり、インターネット対応を実現して第2の飛翔を目指している。

 いま、1990年代初期のIBMとアップルの提携に端を発した提携戦略のほとんどが崩壊している。タリジェント、カライダ、3DO、ジェネラル・マジック……。提携戦略崩壊の直接の原因は、かじ取りのいない烏合(うごう)の衆の暴走であった。しかし最後のローラーはインターネットという大波であったと思う。インターネットはすべてをのみ込み、押し潰し、技術を淘汰(とうた)していく。この大波を乗り切ったものの中から新しい時代の担い手が生まれてくるのである。

 最近のビル・アトキンソンは、ビル・アトキンソン・フォトグラフィという会社をつくって、インターネットで風景写真を売っている。会社の設立は、1997年で、アンディ・ハーツフェルドが手伝っている。ビル・アトキンソンは、ハッセルブラッドとかニコンとかリンホフなどのカメラを使い、高級な処理機とソフトで写真の処理をしている。でも、たかが風景写真を200ドルから1800ドルで売るというのは、少し高いなあ、とわたしなどは思ってしまう。

本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の冒険者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。

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