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IT業界の冒険者たち

第19回 アルゴリズムの天才

脇英世
2009/6/10

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 クヌースは、奥さんのジルとスタンフォードのキャンパス内に住んでいる。奥さんも『Banners Without Words』という本を書いている。2人の間にはジョン、ジェニファーという子どもがいる。クヌース自身が語るところによれば、毎日2時間を図書館で過ごす。プールに30分、残りの時間は家で読んだり書いたりして過ごす。読書リストを見ると料理も好きらしい。

 音楽が特筆すべき趣味である。カリフォルニア工科大学にいたときは、パサデナのルター派の教会のオルガン弾きを引き受けていた。1965年、アメリカン・ギルド・オブ・オルガニストのメンバーになった。その年、アボット・アンド・シーカー製のパイプオルガンに出合った。クヌースは世界中のオルガンを調査した後、アボット・アンド・シーカー製のパイプオルガンを自宅に設置した。パイプの数が812本というから相当本格的なものらしい。パイプオルガンの写真もインターネットで見られる。これだけのパイプオルガンが置ける家というのは、どの程度の大きさなのかと思う。クヌースはパイプオルガンに関しては相当の名手らしく自信もあり、のめり込みも激しいらしい。

 クヌースは1975年以来電子メールを使ってきたが、1990年1月1日から電子メールのアドレスを持っていない。彼にとっては電子メールのアドレスがなくなったことは幸せらしい。クヌースの仕事は何よりも徹底した集中を必要とする。だから電子メールは邪魔らしいのだ。もしも自分に連絡したいことがあったら、手紙にしてほしい、まとめて返事を出すといっている。クヌースには秘書がいて、彼女が手紙の仕分けと分類をしてくれる。FAXでもよいが、クヌースはFAXを最後に見るのだそうだ。電子メールがくるとすれば、それは秘書が打っているらしい。すべてはTAOCPの完成のためである。

 クヌースの語るところによれば、1981年、TeXの仕事が忙しくなり時間が足りなくなったので、TAOCPに関する手紙に返事をするのをやめた。やってきた手紙はよけておいて「ありがとう。すぐにご返事します」と印刷した返事だけを出した。最近やっと暇になったので、1996年7月11日、15年間たまった手紙に返事を出した。その数は250通以上。よく250通も手紙が書けるものだ。わたしなど考えただけで気が遠くなりそうだ。

 15年も放っておいたなら別に返事なんかしなくてもよさそうだが、クヌースは妙なところで義理堅い。TAOCPに関する誤りを見つけた人には1カ所につき2ドルの賞金を出すと約束していたので、125通に小切手を同封した。多少遅れたが約束は守ったといっているが、15年も待たされた方はたまらない。当然250通のうち、かなりの数の手紙が「あて先不明」で戻ってきた。そこであて先不明の人の名前をインターネットのホームページに掲示して、本人または本人を知っている人からの連絡を待っていると書いている。なんともすごい人だと思う。

 クヌースは一切を辞してTAOCPに打ち込んでいるはずだが、インターネットにホームページを開設している。ずっと見ていると、かなり頻繁に手を入れて内容を更新している。あまり垢抜けしないデザインだから、本人が書いているのだと思う。電子メールが嫌いだといっているわりに「TAOCPの誤りを見つけてくれたら1つについて3ドル進呈。電子メールでお知らせ講う」と書いている点が矛盾していて面白い。

 TAOCPは名著であるとはいえ、かなり昔の本である(*1)。最大の問題は、MIXという仮想コンピュータを想定した機械語プログラムが多数存在することである。仮想コンピュータとはいえ、ある意味でハードウェア依存である。そこでクヌースはMIX2009という仮想RISCコンピュータを提案して、TAOCPをアップツーデートなものにしようとしている。すると全部書き直しということになるが、そんなことが本当にできるのかなと思ったりする。SF作家のアシモフが、昔書いた『銀河帝国興亡史』の続きを長い中断の後で書いたが、やはり長い中断は障害になったようだ。本はやはり中断なしに書くべきもののようである。

*1)TAOCPの第1巻と第2巻の第3版は1997年に、第3巻の第2版は1998年に出ている。新しい本はきれいですてきだ。でも前と同じく買っても読むかな? と心配している。

補足

 ドナルド・クヌースの業績は、ほぼTeXとTAOCPに固まったようだ。だが64歳という年齢にもかかわらず、意気軒昂そのもので、TAOCPの第4巻はいよいよプレビューの段階に入っている。こういうものすごい本を読ませるより、ビデオかなんかでさっと概要だけ分からせてくれればいいのにと、凡人のわたしは嘆く。

本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の冒険者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。

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