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IT業界の冒険者たち

第21回 UNIXの神様

脇英世
2009/6/12

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 ビル・ジョイのいたカリフォルニア州立大学バークレー校は、国防総省の高等研究局ARPAの軍事研究の一環としてインターネットの研究を行っていた。4.XBSDそのものもARPAの軍事研究の一環という性格があった。この結果、インターネットのネットワークプロトコルであるTCP/IPがLANのプロトコルになり、TCP/IPが4.2BSDと結び付いた。

 1982年ビル・ジョイはアンディ・ベクトルシャイムに請われてサン・マイクロシステムズに入社する。ビル・ジョイは実際には設立後数カ月してから入社した16番目の社員であるが、サン・マイクロシステムズの共同設立者の1人という待遇になっている。

 サン・マイクロシステムズのSUNというのはアンディ・ベクトルシャイムの命名になるもので、スタンフォード・ユニバーシティ・ネットワークの略である。サン・マイクロシステムズの戦略は既存の標準的な技術や部品を使い、安価なワークステーションを作り出すことであった。

 安価ということを検証すると、最初の製品であるワークステーションSUN1は200台ほど作られたが1万ドルという価格であった。1万ドルという価格は決して安くはないが、サン・マイクロシステムズが標的としていたDEC、データ・ジェネラル、プライムなどのミニコンメーカーのミニコンや、アポロ・コンピュータのプロプライエタリなアーキテクチャのワークステーションに比べればはるかに安かった。サン・マイクロシステムズのワークステーションは貧乏な人の買うワークステーションとして出発したのである。現在サン・マイクロシステムズのワークステーションが金持ちのワークステーションとなってしまったことは皮肉である。

 既存の標準的な部品ということでは、サン・マイクロシステムズはモトローラのMC68000プロセッサ、イーサネット、マルチバスを使った。既存の標準的な技術ということでは、ネットワーク・ハードウェアとしてイーサネット、ネットワークプロトコルとしてTCP/IP、OSとして4.2BSDを使った。いまでは当たり前のこととなってしまったが、1982年当時、イーサネットを採用することは極めて先見的であった。UNIXの本家AT&TはまだUNIXにLANを結び付けることなど考えついていなかった。AT&TのUNIXには電話線経由のUUCPがあったほどである。IBMはまだ独自のネットワーク・ハードウェアにこだわっていた。ネットワークプロトコルもサン・マイクロシステムズは先進的で一般的なTCP/IPを使った。OSは大学や研究所で最も人気があったビル・ジョイの4.2BSDである。何といってもUNIXの神様ビル・ジョイの存在は大きかった。こうしてサン・マイクロシステムズは無敵の快進撃を続けることになる。

 サン・マイクロシステムズは初めから企業としての成立を目指していた。役員は高い学歴を誇り、技術の専門家、製造・営業の専門家、経営の専門家がいてベンチャー資本も付いていた。この辺がマイクロソフトやアップルと違うところだ。大衆路線より高級化路線を取ったことも違う。

 1984年11月、サン・マイクロシステムズは、NFS(ネットワーク・ファイル・システム)を発表した。サン・マイクロシステムズはこのNFS技術を他社にライセンス供与した。またNFSの内容を公開しオープンにした。サン・マイクロシステムズはこれに続いてOSN(オープン・システムズ・ネットワーキング)、ONC(オープン・ネットワーク・コンピューティング)の構想を発表した。1980年代中期のサン・マイクロシステムズはネットワークに最も先進的であり、OSI、TCP/IPの両分野で革新的な提案を次々に行った。サン・マイクロシステムズの定評はこの時代に出来上がったといってよい。

 1985年ごろ、ビル・ジョイは1990年代までに100MIPSのワークステーションが欲しいといい出した。当時サン・マイクロシステムズのワークステーションは2MIPSを実現した程度だった。この夢を実現するためには、まったく革新的なアーキテクチャであるRISC(縮小命令セットコンピュータ)アーキテクチャに基づいたワークステーションを開発することが必要だった。ビル・ジョイとアンディ・ベクトルシャイムはサン・マイクロシステムズ独自のRISCチップであるSPARCの設計を終えていた。このSPARCチップの製造は最初富士通を中心に行われることになった。

 1987年サン・マイクロシステムズはAT&T、マイクロソフトと連合し、SPARCチップを前提としたUNIXの大統合構想を提案した。分裂していたUNIXを1つにまとめようとするものである。この構想の危険性に気付いたDEC、ヒューレット・パッカードなど旧来のミニコンメーカーはIBMを盟主に盛り立て、OSF(オープン・ソフトウェア・ファウンデーション)を結成してAT&T、サン・マイクロシステムズ連合と対決する。AT&Tとサン・マイクロシステムズはUNIXインターナショナルを結成し、OSFとの間で世界戦争を繰り広げる。

 この不毛な戦争は、終始OSF有利のうちに推移し、対マイクロソフト戦争の必要性からOSFとUNIXインターナショナルの主要メンバーが1993年COSEという団体を結成したことで終結した。

 戦争の中ではっきりしたのは、サン・マイクロシステムズのワークステーションが企業内の基幹業務を担えるほどに成長してきたことである。

 サン・マイクロシステムズは、巨大になり続けている。一般に巨大になると官僚化が横行し、新しいアイデアは出せなくなるものである。しかし、サン・マイクロシステムズはまだ挑戦する企業である。

補足

 最近のビル・ジョイは、いろいろなアイデアのエバンジェリスト(伝道者)となっている。何か良いアイデアが出てくると、それを取り上げ、広める役割を演じている。例えばJavaがそうであり、これに続いてJiniという分散コンピューティング環境がある。またSCSL(サン・コミュニティ・ソース・ライセンス)についても熱心であるといわれている。

 UCバークレー出身のジーン・ケーンのP2P(ピア・ツー・ピア・ネットワーキング)についても、ビル・ジョイはマイク・クラリーとともに取り上げた。Jiniと違って、非Javaアプリケーションでも動くジャクスタポレーションを強調している。ただしビル・ジョイのP2P構想については、同じくP2Pを手掛けているグルーブ・ネットワークスのレイモンド・オジーから批判がある。

 ビル・ジョイについて最も有名な話題は『ワイアード』誌の2000年4月号に掲載された「なぜ将来は我々を必要としないか」という論文である。この論文でビル・ジョイはハイテクの弊害と危険性を指摘して大いに物議をかもした。

本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の冒険者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。

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