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IT業界の冒険者たち

第21回 UNIXの神様

脇英世
2009/6/12

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本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、IT業界を切り開いた117人の先駆者たちの姿を紹介します。普段は触れる機会の少ないIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部)

本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の冒険者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。

ビル・ジョイ(Bill Joy) ――
BSD開発者

 ビル・ジョイはウィリアム・ジョイの愛称で、BSD版UNIXの設計を行った人物である。彼が参加したことによりサン・マイクロシステムズは急成長をすることとなった。そのビル・ジョイとサン・マイクロシステムズについて見てみよう。

 1955年、ビノッド・コースラという男がインドのニューデリーで生まれた。ビノッド・コースラはインド工科大学の電気工学科を卒業した後、カーネギー・メロン大学で生物医学工学の修士号を取得した。その後、ビノッド・コースラはスタンフォード大学の経営学修士課程で学ぶことになる。冒険的企業家を目指していた彼はデイジー・システムというコンピュータメーカーの設立にも関与する。

 当時、中小型機分野で力を持っていたのはDEC、データ・ジェネラル、プライムなどのミニコンメーカーであったが、1980年にアポロ・コンピュータがすい星のように登場する。アポロ・コンピュータはドメインネットワークというネットワークコンセプトを強く意識したワークステーションメーカーであった。

 ビノッド・コースラは、こうした状況の中、独自(プロプライエタリ)な技術や部品を使ったワークステーションでなく、既存のオープンで標準的な技術や部品を使ったワークステーションを作る会社を設立することを思いついた。そこでビノッド・コースラは同じアイデアを持ち、それをより具体的に実現できる人間を探し始め、1982年1月、ビノッド・コースラはアンディ・ベクトルシャイムを説得するのに成功する。

 ビノッド・コースラはどういうわけか相当なけちん坊だったらしい。企業を起こすような人には締まり屋が多いが、あまり度が過ぎると人望をなくす。ビノッド・コースラは1984年に意見の対立から自分の作ったサン・マイクロシステムズを去ることになる。ただし、サン・マイクロシステムズと完全に切れたわけではなく、アンディ・ベクトルシャイムは後に一時期、ビノッド・コースラを頼っている。

 アンディ・ベクトルシャイムは、西ドイツで生まれ育った。アンデイ・ベクトルシャイムは7歳のとき初めてラジオを作り、16歳のときインテル8080を使ったコンピュータシステムの設計を手伝った。

 1975年、アンディ・ベクトルシャイムは19歳で米国に渡り、カーネギー・メロン大学に入学した。コンピュータ工学の修士号を取った後、1977年スタンフォード大学に移り、博士課程に進んだ。1981年アンディ・ベクトルシャイムは既存の標準的な技術や部品を使ったワークステーションの設計を開始する。これがサン・マイクロシステムズの最初のワークステーションSUN1になる。アンディ・ベクトルシャイムはサン・マイクロシステムズの中でハードウェア担当の最高責任者という形になる。

 会社をつくるには製造・営業関係の人材も必要である。ビノッド・コースラはスタンフォード大学の経営学修士課程で顔見知りだったスコット・マクニーリに目を付けた。

 ハーバード大学で経済学を専攻したスコット・マクニーリの父はアメリカン・モータースの副会長を務めたことがあり、スコット・マクニーリ自身もロックウェル・インターナショナルの製造、営業部門で働いていた。彼はスタンフォード大学のビジネス・スクールの経営学修士課程に入学する。製造関係をさらに勉強したかったためという。その後、FMC社の製造コンサルタントとなった。さらにスコット・マクニーリはオニックス・システムズの業務担当重役を務めた。1982年1月、ビノッド・コースラがコンピュータ会社を始めようと電話をしてきた。

 1982年2月、基本的にはビノッド・コースラ、アンディ・ベクトルシャイム、スコット・マクニーリの3人で50万ドルのベンチャー資金を元にサン・マイクロシステムズは設立された。しかし、あと1人、神様といわれる男が必要だった。

 ビル・ジョイは、1954年デトロイトに生まれた。ビル・ジョイが通った高校は公立高校であり、コンピュータには触れなかったようだ。ビル・ジョイは1971年にミシガン州立大学電気工学科に入学し、1975年に卒業した。ミシガン州立大学では最初アムダール社の大型コンピュータに触った。言語はFORTRAN。さらに、CDC(コントロール・データ)の大型コンピュータに接したらしい。ここまでの経歴ではパっとしたところはない。

 ビル・ジョイは、その後1975年カリフォルニア州立大学バークレー校で電気工学およびコンピュータ科学科で修士号を取っているが、博士課程在学は1982年までに及ぶ。ビル・ジョイがUNIXに接したのは、1976年AT&Tからケン・トンプソンがバークレー校に来てUNIX第6版を持ってきたこと、そしてPDP-11/70が導入されたことに端を発する。

 これを機にバークレー版UNIXの開発が開始される。バークレー版UNIXはBSD版と呼ばれて有名だが、この開発は1977年に始まった。スクリーンエディタなどを開発して、これが1.0BSDとなる。ビル・ジョイは1.0BSDからバークレー版UNIXに関与していた。続いて、これを改良した2.0BSDが出た。1979年VAX11/780が導入されたことにより、32ビットOSの3.0BSDが出る。続いてARPAの援助を受けて4.0BSD、4.1BSD、4.2BSDが出る。BSDの開発はほとんどビル・ジョイただ1人によって行われたといわれる。4.2BSDは最も影響力の強いUNIXであり、ビル・ジョイは4.2BSDの父として有名になった。

本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の冒険者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。

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