自分戦略研究所 | 自分戦略研究室 | キャリア実現研究室 | スキル創造研究室 | コミュニティ活動支援室 | エンジニアライフ | ITトレメ | 転職サーチ | 派遣Plus |

IT業界の冒険者たち

第23回 Javaを作った伝説的プログラマ

脇英世
2009/6/16

第22回1 2次のページ

本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、IT業界を切り開いた117人の先駆者たちの姿を紹介します。普段は触れる機会の少ないIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部)

本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の冒険者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。

ジェームズ・ゴスリング(James Gosling)――
Javaを作った伝説的プログラマ

 ジェームズ・ゴスリングについては、インターネットを調べるといくらでもデータがある。そして本人自身のホームページもある。写真もたくさん手に入る。はげて眼鏡を掛けて、ひげをたくわえている。それにもかかわらず、彼についてはある意味で何も分からない。例えば、どこで生まれて式の生い立ちについては、詳しいことは何も分からない。非社交的で、はにかみ屋の修道僧のような雰囲気がある学究的な研究者といわれている。

 パトリック・ノートンによれば、1988年当時のジェームズ・ゴスリングは、Tシャツ姿で靴ははかず、靴下は寸法が合わなかったという。写真を見る限りいまも同じだろう。当時の彼のSUN3/60にはマッキントッシュのステッカーが、壁には日本の浮世絵の版画が貼ってあった。本棚にはホロビッツ、クヌース、フォーリー・バンダム、ゼロックスのブルーブック、SIGGRAPHやOOPSLAのプロシーディング、ブリースド・ラルソンの全集などが並んでいたそうだ。

 ジェームズ・ゴスリングは1955年、カナダのカルガリーに生まれた。

 ジェームズ・ゴスリングは1977年、カナダのカルガリー大学のコンピュータ科学科を卒業した。DECのPDP-8に熱中したといわれている。1983年カーネギー・メロン大学からコンピュータ科学でPh.Dを取得した(*1)。学位論文は「The Algebraic Manipulation of Constraints」である。

*1)ジェームズ・ゴスリングは「青年時代、道を誤って……」と書いている。

 この時代のジェームズ・ゴスリングの業績として分かりにくいのは、彼がオリジナルのEmacsエディタを作ったと主張している点だ。厳密にコメントを読んでみると次のようになっている。

 「わたしはEmacsエディタを作った。わたしはUNIX用にオリジナルのEmacsエディタを作ったんだ。それはインターネット上で非常に有名になったテキストエディタだ」

 このコメントは非常に注意して話されているのでうそはない。でも際どい。普通の解釈ではEmacsエディタは、1975年にリチャード・ストールマンたちによって書かれた。このときEmacsエディタはDECのPDP-10上で走るテキストエディタTECOのプログラミング言語で書かれた。ジェームズ・ゴスリングが1980年代にこのEmacsエディタをUNIX用にC言語で書き直した。その後リチャード・ストールマンはGNU Emacsを作った。だからジェームズ・ゴスリングのいっていることにうそはない。しかし、このいい方は紛らわしい。ジェームズ・ゴスリングがEmacsエディタの発明者のように取られる。「Emacsはリチャード・ストールマンが作った。わたしはGosmacsを作った」といえばいい。それが普通の礼儀だ。米国内でもジェームズ・ゴスリングの、Emacsを作ったという発言にはずいぶん反発があるようだ。

 そのほか彼は、カーネギー・メロン大学時代にはパスカルのコンパイラを手掛けたようだ。

 その後ジェームズ・ゴスリングはピッツバーグのIBM研究所に入り、アンドリュー・ウィンドウ・システム(Andrew Windowing System)を手掛けた。その後1984年ジェームズ・ゴスリングはサン・マイクロシステムズにスカウト入社した。サン・マイクロシステムズではアンドリュー・ウィンドウ・システムの経験を買われてNeWS(Network Extensible Windowing System)を担当するグループの一員となった。NeWSはDEC、HP、IBMの支持する]11と衝突することになり、苦しい戦いとなった。サン・マイクロシステムズは]11と正面衝突することの不利を悟り、NeWSと]11を合体させることになった。この折衷案には無理があり、非正統派のインプリメンテーションは激しい攻撃の的になり、ユーザーからはサポートの欠落を批判された。結局、ジェームズ・ゴスリングはNeWSでは、あまり才能を発揮できなかったようだ。最終的にNeWSは、]11やNeXTにかなわなかったといわれている。

 しかし1987年、UNIXの神様ビル・ジョイはジェームズ・ゴスリングをUSENIXの聴衆に向かって「おそらくこれまでで最高に燦然と輝くプログラマ」として紹介した。こういう紹介のされ方をすることが、その人の一生にとって良いのか悪いのか分からない。

 1990年12月、NeWSの開発に従事していたパトリック・ノートンはNeXTに衝撃を受け、NeXTの革新性をサン・マイクロシステムズの中で説くが誰も同調しない。サン・マイクロシステムズも保守化し官僚化していたのである。ノートンはNeXTに転職しようとするがスコット・マクニーリに慰留され「グリーン・コンシューマ環境プロジェクト」を開始した。1991年1月「ステイルス・プロジェクト」ブレインストーミングがアスペンで開かれ、ビル・ジョイ、ジェームズ・ゴスリング、パトリック・ノートンらが参加した。これを受けてチームが結成され、1991年4月メンローパークのサンドヒルロードにあるバンク・オブ・アメリカ・ビルの4階に移動した。プロジェクト名は「グリーン」と決まった。グループはまったく革新的な製品を作り出すため、サン・マイクロシステムズとのネットワーク接続を断った。

本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の冒険者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。

第22回1 2次のページ

» @IT自分戦略研究所 トップページへ

IT業界の冒険者たち バックナンバー

自分戦略研究所、フォーラム化のお知らせ

@IT自分戦略研究所は2014年2月、@ITのフォーラムになりました。

現在ご覧いただいている記事は、既掲載記事をアーカイブ化したものです。新着記事は、 新しくなったトップページよりご覧ください。

これからも、@IT自分戦略研究所をよろしくお願いいたします。