第33回 インターネットの若き覇者
脇英世
2009/7/6
1994年4月、ジム・クラークとマーク・アンドリーセンによってモザイク・コミュニケーションズ社が設立された。ジム・クラークは会長となり、マーク・アンドリーセンは副社長となった。
1994年11月、モザイク・コミュニケーションズはイリノイ大学のNCSAからの強硬な抗議によりネットスケープと社名変更した。モザイクという名前の権利はイリノイ大学のNCSAに帰属するから使ってはいけないというのである。これに困ったジム・クラークらはネットスケープという名前を考え付いた。ネットスケープという新社名はランドスケープという英語に端を発しているという。イリノイ大学の2度目の失敗である。こういう扱いを受けてマーク・アンドリーセンが母校に良い感情を持てるわけがない。イリノイ大学にとっては大きな損失で、もったいないことである。
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イリノイ大学の失策はまだあって、新設計のネットスケープのナビゲータが、イリノイ大学のNCSAのモザイクの知的所有権を侵害しているとクレームをつけた。実際に知的所有権侵犯はあったようだ。新しいソフトがそれほど簡単に作れるわけではない。ただイリノイ大学の要求は単にお金が欲しいということだけであったので、これに対してはビジネスの駆け引きの経験に富む老獪(ろうかい)なジム・クラークが対抗して、値切って解決した。
何があろうとネットスケープは破竹の快進撃を続け、またたく間にネットスケープは世界のインターネット用ブラウザ市場の85%を制した。
1995年1月にネットスケープにジェームズ・バークスデールが社長かつ最高経営責任者(CEO)として迎え入れられた。このころすでにジム・クラークはひそかに別の方面への転進を考えていた。
1995年8月ネットスケープは500万株を1株28ドルで公開した。ジム・クラークがネットスケープに投資した金額は410万ドル程度だったが、ジム・クラークの持ち株は940万株である。ネットスケープの株は一時109ドルになり、ジム・クラークの資産は19カ月で1000億円になった。
こうして、あっという間に覇権を握ったネットスケープだが、またたく間にマイクロソフトに覇権を奪われてしまう。この間の事情をうまく説明したものに、マイクロソフトのインターネット・カスタマー部門戦略関係担当副社長であるキャメロン・ミアボルドの、1999年1月の独占禁止法裁判における直接証言書がある。
この57ページにわたる直接証言書の第5章に「ネットスケープとそのブラウザ・ソフトウェアはISP(インターネット・サービス・プロバイダ)には魅力的でないものになったか」という章がある。要するにネットスケープはなぜマイクロソフトに負けたかを論じている。勝者の余裕を感じさせる論評である。
第1項 ネットスケープは小規模なISPを粗略に扱った(98節)
第2項 ネットスケープは次第に先端的なインターネット技術の提供者でなくなった(99節)
第3項はなるほどと思わせる内容である。
「第3に、ネットスケープは、確立された『ブラウザ』というブランド名を強調するのを弱め、『コミュニケータ』というブランド名を強調するという奇妙な決定をしたことである」(100節)
第4項も、そういえばそうだ。
「第4に、ネットスケープは、IBMのロータスノーツやマイクロソフトのエクスチェンジと競って、企業内のメッセージ・ビジネスに多くの時間と資金を投資したことである。この分野にはネットスケープは製品を出した経験もなく、大企業の顧客の要求する厳格な品質や製品サポートに応える準備がなかった」(101節)
第5項は鋭い指摘だ。
「第5に、ネットスケープは6カ月ごとに企業の方向性を変更し続け、誰にもネットスケープとはどんな会社であるか分からなくさせてしまった。
当初ネットスケープは、Webブラウザ・ソフトウェアの会社であった。
それからネットスケープは、Webサーバ・ソフトウェアの会社になった。
それからネットスケープは、イントラネットの会社になった。
それからネットスケープは、エクストラネットの会社になった。
それからネットスケープは、企業内メッセージングの会社になった。
それからネットスケープは、Eコマースの会社になった。
それからネットスケープは、ポータルWebサイトの会社になった。
この手の企業の自己同一性のもろさは、安定性と一貫性を求めるISPのようなビジネス・パートナーを不安にさせる。さらに企業の方向性におけるこのような変更は、ネットスケープの優先度に変更を加え、そのことがISPをさらにないがしろにする結果となった」(102節)
これは確かにキャメロン・ミアボルドのいうとおりだろう。マイクロソフトの側から見ていると、ネットスケープは勝手に自滅しているようなところもあるのである。もう少し腰の据わった相手であってもという気持が見て取れる。
1998年11月AOLは敗北したネットスケープを42億ドルで買収した。ネットスケープの株式はAOLの株式に交換されることになり、理論的には会長ジム・クラークは6億ドル(4億3500万ドルとの説もある)を、ジェームズ・バークスデールは1億9000万ドルを手中にした。
マーク・アンドリーセンはAOLによるネットスケープの買収後、AOLの最高技術責任者(CTO:チーフ・テクノロジー・オフィサー)を務めていたが、1999年9月AOLを辞めてラウドクラウド社を設立した。ラウドクラウドはネットワークのインフラを構築したり、サービスを提供する会社である。
その前月、マーク・アンドリーセンはAOLの株式94万株を売却して8800万ドルを得た。これがラウドクラウド社の資本金の一部になった。ラウドクラウドでは、マーク・アンドリーセンは会長に就任し、ネットスケープから来たベン・ホロビッツが最高経営責任者になった。ディレクトリ・サービスで注目されているLDAP技術を開発したティム・ハウスがCTOに就任した。
ラウドクラウドは当初最も期待された会社であった。ところが、ラウドクラウドは運が悪かった。2001年3月、ラウドクラウドは株式を上場したが、ラウドクラウドの株価はほとんど上がらず、ひたすら低落する一方であった。困ったマーク・アンドリーセンは6月に100万株を買い支え、10月には43万株買い支えた。それでも低落を防ぐことはできなかった。ネットバブルは完全に崩壊していたのである。
一方、マーク・アンドリーセンは2000年5月にオクトパス・コムという会社に出資し、取締役会に参加した。オクトパスはパーソナライズされたWebサービスを提供する会社であった。言葉を変えればメタ・ブラウジング・サービスを提供する会社であった。これもうまくいったとはいい難い。
どうもマーク・アンドリーセンにはビジネスの方の才能はなかったようだ。
マーク・アンドリーセンは、大食いで有名である。背が高く丸々と太っている。顔も真ん丸い。マーク・アンドリーセンは袋に詰まってつまむジャンク・フードに弱い。フレンチ・フライのように脂肪の多いもの、チョコレートのように甘いものには目がない。そのうえスポーツには関心がない。そのためますます太る一方だ。料理は全くできない。それを料理と呼ぶか疑問だが、缶詰のスープを開けて煮る程度だ。缶切りが見つからないで閉口することすらあるらしい。
成功したマーク・アンドリーセンは、安アパートを新しい家に変え、1994年型マスタングをメルセデス・ベンツに変えた。家には無数のクラシック音楽のCDをそろえ、ブルドッグの散歩、ビデオを借り、真夜中過ぎまで読書と電子メールざんまいにふける。
マーク・アンドリーセンは、ものすごい読書家である。読んでいる本のリストが時々伝えられることがある。少し前のリストだが、極めて広範囲で多彩である。
『インサイド・ザ・トルネード』
『ザ・プライズ』
『マーケティング・ハイテクノロジー』
『リレーションシップ・マーケティング』
『オンリー・ザ・パラノイド・サバイブ』
『ハイパーコンペティティブ・ライバリティーズ』
『ザ・ダイアモンド・エージ』
大体は目の付けどころの良さに敬服させられてしまう。以前『マイクロソフト・シークレット』はマーク・アンドリーセンが感銘を受けた本として挙げていたので、翻訳が出た時あらためて読み直して感心した覚えがある。話題の豊かな人らしい。
マーク・アンドリーセンは1994年後半からもうプログラムは書いていない。技術の先行きを見ることが業務である。もともとモザイクの開発においてもマーク・アンドリーセンはプログラミングよりもプログラム開発の仕事の割り振りや進行管理をやっていたといわれる。ネットスケープ社の仕事はプログラム開発が中心であり、20代前半で完全にプログラミングから手を引いたのは少し早すぎたような気がする。
本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の冒険者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。 |
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