第42回 インターネットの風雲児
脇英世
2009/7/17
ハルゼイ・マイナーはバージニア大学時代にザ・レンタル・ネットワークという小さな会社をつくった。この会社はシャーロッツビル市内の数カ所にスタンドアロンの端末を置き、アパートの空室のデータベースを検索できるようになっていた。使いやすいキオスクの形態であったらしい。要するに不動産情報の提供業をやったのである。
不動産情報は常に最新の情報に更新されなければならない。ハルゼイ・マイナーは1週間に3回市内を車で回ってデータベースを手作業で更新した。多分、大変な仕事であったろう。ハルゼイ・マイナーは端末がスタンドアロンでなくネットワークでつながれていたらどんなに素晴らしいだろうと考えた。当時、ハルゼイ・マイナーはインターネットの存在すら知らなかったようだ。しかし、この話も少し変だと思うのは、当時もうオンラインサービス(日本でいうパソコン通信)が普及しつつあり、スタンドアロンである必要はなかったはずである。
1987年、ハルゼイ・マイナーはバージニア大学を卒業すると、ニューヨークに行って、メリルリンチ・キャピタル・マーケットのインベストバンカーになった。仕事はうまくいったらしいが性に合わなかったようだ。この時代ハルゼイ・マイナーはエレクトロニックパブリッシング(電子出版)のアイデアに魅せられていた。
当初の2年間の雇用契約期間が過ぎた1989年、ハルゼイ・マイナーはグローバル・パブリッシング・コーポレーションを設立した。この会社はコンピュータネットワークを使ってマルチメディアによるビジネストレーニングを行うものであったという。この会社はメリルリンチから注文を取ることが前提であったが、メリルリンチの業績不良のため予算がなくなり、わずか2カ月でつぶれた。つまり何もしなかったというのが正しいようだ。
その後、機内誌のコンサルタントなどを経てハルゼイ・マイナーはラッセル・レイノルズ・アソシエイツのラッセル・レイノルズのかばん持ち兼スカッシュの相手になった。
1992年12月、ハルゼイ・マイナー27歳のとき、ラッセル・レイノルズのかばん持ち兼スカッシュの相手を辞めて、CNETを創業することになった。この創業は相当大変なことであったと思われるが、ともかくCNETは船出した。資本金は5万ドル、サンフランシスコに本拠を置いた。ソフトウェア会社ならシリコンバレーに本拠を置くべきだが、メディア会社ならサンフランシスコに本拠を置くべきだというのがハルゼイ・マイナーの考え方であった。
当然のことではあるが、CNETはそう簡単にうまくいくわけがなく、1994年には会社倒産の危機を迎えた。ところが1994年夏、ポール・アレンの投資会社バルカン・ベンチャーズがCNETに500万ドルの投資を決め、ハルゼイ・マイナーの窮状を救った。ポール・アレンはマイクロソフトの共同設立者である。
これに続いてUSAネットワークが投資を決め、CNETセントラルをUSAネットワークとその系列のSci‐Fiチャンネルで流すことを決めた。実際の放送は1995年4月になってからである。1995年6月にはCNETオンラインがサービスを開始した。
一度動きだせば順風満帆である。CNETは無敵の快進撃を続け、またたく間に全米で1番アクセスされるWebサービスにのし上がった。1996年7月には株式を上場した。
1997年9月、CNETは暗号名ガンスモークとしてだけ知られていた秘密計画をSNAP! ONLINEというオンラインサービスとしてスタートさせた。SNAP! ONLINEはAT&T、ベル・サウス、マインドスプリング、MCI、スプリントなどの大手と提携している。
SNAP! ONLINEはオンラインサービス市場の巨人AOLの、オンラインサービス市場支配に対抗しようとしている。その意気込みは買うが、無謀だといわれている。また1997年11月にはCOMPUTERS.COMサービスの提供を開始した。これは予想以上に開発経費がかかった。
ハルゼイ・マイナーは1994年以来のインターネットブームにうまく乗った。ハルゼイ・マイナーでなく別の人物であったとしても成功はしただろう。しかしインターネットはブームの時期を過ぎ、リセッションの時期に入りつつある。たちまち消え去るか、それともしぶとく残るか、それこそハルゼイ・マイナーの腕の見せどころである(*2)。
(*2)CNETの問題は、売り上げは年々伸びているのに、赤字もこれに比例して増加している点である。趣味をビジネスに持ち込み過ぎるということだろう。 |
ハルゼイ・マイナーにとって有利なことが少なくとも1つある。ハルゼイ・マイナーはまだ若いのだ。
■補足
ハルゼイ・マイナーは2000年3月、CNETの最高経営責任者(CEO)の地位を降りた。ベンチャー企業の育成に専念したいとのことであった。さらにこの計画が具体化した12 Entrepreneuring社の経営に専念するため、2000年11月CNETの会長の地位も降りた。CNETの最高経営責任者と会長の地位は、シェルビー・ボニーが受け継いだ。シェルビー・ボニーはハルゼイ・マイナーと同じバージニア大学の卒業生である。
12 Entrepreneuring社の経営にはマーク・アンドリーセンも参加していて、当初は注目されたが、2001年11月には経営の破たんが表面化した。原因は経営のずさんさにあった。
本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の冒険者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。 |
» @IT自分戦略研究所 トップページへ |
@IT自分戦略研究所は2014年2月、@ITのフォーラムになりました。
現在ご覧いただいている記事は、既掲載記事をアーカイブ化したものです。新着記事は、 新しくなったトップページよりご覧ください。
これからも、@IT自分戦略研究所をよろしくお願いいたします。