第50回 グラフィックスからLinuxへ
脇英世
2009/8/4
1999年末までに、コーレルはウィンドウズ版のワード・パーフェクト9、クアトロ・プロ9、コーレルプレゼンテーション9の出荷を予定しており、同時にLinux版の配布も考えている。続く2000年には、コーレルDRAW9、フォトペイント9、コーレルベンチユラ9のウィンドウズ版とLinux版でのリリースをもくろんでいる。
また1999年3月、コーレルは「CorelデスクトップLinux」のディストリビューションを決めた。コーレル版Linuxは、デビアンのLinuxを基に作られることになっていた。Linuxへのワード・パーフェクトのインストールを簡単にするには、自分たちで、もっとユーザーフレンドリーなLinuxを出した方がよいという判断である。同年同月、シグナス・ソリューションズがLinux開発でGNUプロ・デベロッパーズ・キットを提供して、コーレルを援助することになった。
またウィンドウズからLinuxへの移行については、コーレルはエミュレータソフトのWINEに期待を寄せていた。WINEはウィンドウズ用アプリケーションがLinuxやほかのパソコン用UNIXで動くようにするソフトである。
収入が激減している中で、コーレルはインプライズ(ボーランド)を2億4000万ドルで買収しようとしたが、5月23日断念した。また8月15日のGNOMEファウンデーションのLinuxデスクトップ計画もコーレルに痛撃を与えた。
2000年8月15日、マイケル・コープランドはCEOの職を辞任した。マイケル・コープランドはLinuxには市場性があると踏んですべてを賭けたのだが、まだLinuxの市場はそれほど大きくはなかったのである。
マイケル・コープランドの辞職には、もう1つ決定的な要因があった。
当時、カナダのオンタリオ州の証券取引委員会が13カ月に及ぶ調査をして、1977年にマイケル・コープランドが2040万ドルのインサイダー取引をしたことを明らかにした。有罪であれば、懲役2年に加えて、最低1億円の罰金、また加えて不正利益の最低3倍の罰金を科せられることになった。
どうしてそのようなことになったかというと、生活が派手だったからだろう。例えば奥さんのマーリンがパーティーで着る衣装は大胆で官能的なことでも有名だったが、金やダイヤモンドで飾りつけ、1着1億円もするものがあった。それから察すれば、どの程度のお金を使っていたか、想像に難くない。湯水のごとくお金を使ったために、お金がいくらあっても足りなかったのだろう。
連日豪華なパーティー三昧(ざんまい)で、事業を省みなかったことがコーレルを駄目にした。結局、コーレルはコーレルDRAWに続くヒット商品を生み出せなかった。マイケル・コープランドの興味が事業以外のところに向かってしまったからである。
2000年10月2日マイクロソフトはコーレルの株式を1億3500ドル分購入した。コーレルへの資本参加である。Linuxへの保険を買ったといってよいだろう。マイクロソフトの.NET構想へLinuxも参加させるということで、マイクロソフトが逆にLinuxへの進出を図ってきた。
コーレルの株式はマイクロソフトによる株式の一部買収によって、1日で70%も跳ね上がった。むろんその後は戻したが、何ともあきれ返った結末である。マイクロソフト打倒どころか、逆にマイクロソフトに占領されてしまったのである。
コーレルを降ろされても、マイケル・コープランド自身は意気揚々たるもので、ZIMというワイヤレスの会社をつくり、再びの挑戦を試みている。
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