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IT業界の冒険者たち

第56回 IMSAIとコンピュータランド創業者

脇英世
2009/8/12

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 アップル、タンディ、コモドールのいわゆるご三家が登場してくると、IMSAIは次第に厳しい立場へと追い込まれていった。IMSAI最後のマシンとなったのはVDP-80で、主なスペックとして、12インチのディスプレイ、1Mバイトのフロッピードライブ、32KバイトのRAM、フルキーボードを備えていたが、前述のようにテストが不十分にもかかわらず製品を出荷してしまうなど、問題は多かった。

 IMSAIはあまりに急激に成長したために、キャッシュフローが追いつかなくなり、あっという間に倒産してしまった。1979年のことであった。こうして、IMSAIは表向きには姿を消すが、IMSAIの火は消えずに残ることとなった。

 ここで、トッド・フィッシャーという人物が登場する。高校を卒業すると米空軍に入り、電子機器の修理技術を身に付けていた。空軍に長い間いる気はなかったので、除隊してIBMに入社し、タイプライターとキーパンチマシンの修理技術を覚えた。1967年にIBMを辞めると、1968年から1971年にはロックバンドの楽器を修理する仕事で生活の糧を得ていた。こうしたユニークな経歴の後でIMSAIに勤めるが、結局は退職してしまう。そして1978年10月、元IMSAI社員で後に妻となるナンシー・サンソ・フレイタスと、資本金800ドルで、IMSAI製コンピュータの修理会社であるフィッシャー・フレイタスを創設した。会社はカリフォルニア州オークランドの古い倉庫にあった。

 1979年に入り当のIMSAIが倒産してしまうと、フィッシャー・フレイタスは競売を通じて、IMSAI製品の生産を継続する権利や必要な工具、保守・修理用部品を手に入れた。IMSAIの会社名を獲得して、新たにIMSAIを名乗ることになったのである。1983年の映画『ウォーゲーム』は、このようにしてIMSAIが存続していたために、実現したものだった。注目すべきことに、いまでも、IMSAIシリーズ2を995ドルで購入することができる。

 IMSAIが失われてしまったとしても、コンピュータランドにダメージはなかった。形式上は別会社のため、損害の補償を要求されなかったのだった。ビル・ミラードはIMSAIを捨て、コンピュータランドに乗り換えた。

 コンピュータランドはIBM出身者が多いこともあって、本家IBMに気に入られた。1981年におけるIBM PCの発売では、シアーズとコンピュータランドが、IBMの有力な販売チャネルとして選ばれた。コンピュータランドの覇権は、対抗相手として、ビジネスランドが出て、さらに低価格販売のコンプUSA、ベストバイ、フライズが出現したことで次第に弱くなるが、しばらくの間存続した。

 1987年に入ると、ビル・ミラードはとうとうコンピュータランドの全持ち株を売却した。相当の金額を手にしたらしい。その後、ビル・ミラードは、1991年6月にコンピュータランドを去って、サンフランシスコのヘアケアーチェーンの名誉会長に納まっている。

 コンピュータランドのその後は、1992年にTRWのカスタマーサービス部門を大型買収するといった事業展開も見せていたが、1994年にメリセルに買収され、さらに1997年にはアジア系のSYNNEXに買収されてしまった。

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