第17回 苦境でも人を恨んでいる暇はない
野村隆(eLeader主催)
2006/8/16
将来に不安を感じないITエンジニアはいない。新しいハードウェアやソフトウェア、開発方法論、さらには管理職になるときなど――。さまざまな場面でエンジニアは悩む。それらに対して誰にも当てはまる絶対的な解はないかもしれない。本連載では、あるプロジェクトマネージャ個人の視点=“私点”からそれらの悩みの背後にあるものに迫り、ITエンジニアを続けるうえでのヒントや参考になればと願っている。 |
■リーダーシップトライアングルにおける位置付け
この連載では、システム開発プロジェクトにおけるリーダーシップを中心に、「私の視点=私点」を皆さんにお届けしています。
今回は、前回「自分を陥れた人に感謝する理由」、前々回「困難に立ち向かうリーダー、逃げるリーダー」に引き続き、リーダーシップトライアングルのLoveとCommunicationに関係する内容を解説します。Loveについては、第10回「正しいことをし、行動力を発揮するココロ」を、Communicationについては、第8回「コミュニケーションはリーダーシップの基礎」を、それぞれ参照いただければと思います。
図1 リーダーシップトライアングル。今回は「Love」(ココロ)と「Communication」に関連する内容について解説する |
■心を乱す8要素
前回、前々回の記事で、「八風吹けども動ぜず天辺の月」という禅の言葉を紹介しました。
おさらいになりますが、八風とは、人の心を動揺させる8つの要素のことです。具体的には、利、衰、毀(き)、誉、称、譏(ぎ)、苦、楽の8つです。
利・衰とは、利益を得ること・失うこと。
毀・誉とは、陰に隠れてそしること・ほめること。
称・譏とは、面と向かってほめること・そしること。
苦・楽とは、文字どおり、苦しいこと、楽しいこと。
「八風吹けども動ぜず天辺の月」とは、人の心を動揺させる要素にいちいち動ぜず、しっかりした心の根を張るということに留意し、強風の中で動くことすらない天の月のような心を持ち得ることと理解しています。
今回は幕末・維新の英傑、西郷隆盛の生きざまを例に、陰口や陰湿なイジメが自分に降りかかってきたときや、不遇な状況に追いやられたとき、いかに心の動揺を抑えるかという点について話を進めます。
■敬天愛人という思想
西郷隆盛を知らない人はいないと思います。幕末から維新の時代にかけて活躍した英傑です。征韓論の渦中で下野し、西南戦争の首謀者として城山の地に散ったことはよく知られています。歴史を調べると、維新政府における征韓論で、一貫して西郷隆盛は非戦論を唱えていました。西南戦争においても、鹿児島地域(かつての薩摩藩)での維新政府への武力的反抗を必ずしも推奨していません。しかしながら、やむを得ず、西南戦争の首謀者となっています。
西郷隆盛の真骨頂は、勝海舟との直接対談による江戸城無血開城のような話し合いによる解決、つまり無用な戦いを避けるところにあります。冷静沈着に正しいことをする西郷隆盛の思想は、「敬天愛人(天を敬い、人を愛する)」という言葉で表現されます。
西郷隆盛は、ご存じのとおり薩摩藩出身です。ともすると、薩摩藩のエリートコースを歩んで明治維新の中心人物となったと思う人もいるでしょう。しかし、実際はそうではありません。西郷隆盛が沖永良部島で流罪の刑に処せられていたことはあまり知られていないでしょう。
■沖永良部島への流刑
西郷隆盛は、文久2年(1862年)に当時の薩摩藩主島津忠義の父、島津久光によって沖永良部島に流罪の刑に処せられています。西郷隆盛は島津久光の兄、島津斉彬の下で重用されていました。
島津久光を事あるごとに島津斉彬と比較し、批判していた西郷隆盛は島津久光の怒りに触れ、命令に従わなかったことを理由に刑に処せられました。流刑されてからしばらくの間、西郷隆盛は島津久光を恨み、毎朝木刀で立木を殴り、島津久光をののしったといわれています。
沖永良部島での生活は過酷を極め、高温多湿の風土にもかかわらずまともな住み家も与えられず、西郷隆盛は日に日に憔悴(しょうすい)していきました。
■川口雪篷との出会い
このような不遇な状況に追い込まれた西郷隆盛は、同じく沖永良部島に流刑に処せられていた川口雪篷(せっぽう)という老学者に会います。
西郷隆盛は川口雪篷と何度か話すうち、川口雪篷が西郷隆盛の愛読書である佐藤一斎の『言志四録』に造詣が深いことを知りました。それ以来、西郷隆盛は『言志四録』を読みふけり、川口雪篷と『言志四録』談義をして過ごしました。川口雪篷との出会いをきっかけに、西郷隆盛は、島津久光を恨んで過ごすことは時間の無駄と考えるようになりました。
また、沖永良部島の島役人の土持正照が、西郷隆盛のために住居を新築し、西郷隆盛の流刑の生活は一定の安定を見ます。西郷隆盛はこの家を私塾とし、島の近所の子どもを集め、学問を教えるようになります。
「敬天愛人」という西郷隆盛の思想は、安政の大獄で罪人とされた月照とともに入水したが、西郷隆盛だけ助かったことを契機に確立した思想といわれています。そういう見方は正しいでしょう。しかし同時に、沖永良部島での2年間の生活が、「敬天愛人」という思想を確立したという見方もできると思います。
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