警察学校よさらば
富田倫生
2009/9/30
本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、日本のパソコン業界黎明期に活躍したさまざまなヒーローを取り上げています。普段は触れる機会の少ない日本のIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部) |
本連載は『パソコン創世記』の著者である富田倫生氏の許可を得て公開しています。「青空文庫」版のテキストファイル(2003年1月16日最終更新)が底本です。「青空文庫収録ファイルの取り扱い規準」に則り、表記の一部を@ITの校正ルールに沿って直しています。例)全角英数字⇒半角英数字、コンピューター⇒コンピュータ など |
1972(昭和47)年4月1日付け辞令。
「京都府巡査に任命する。
京都府警察学校初任科に入校を命ずる。
公安職5等級5号給を給する」
国家公務員の上級職で入ってくる者以外、警察を職場として選ぶ者はすべて警察学校に入り訓練を受けることになる。訓練期間は大卒で半年、高卒で1年。
1回90分の授業が午前2回午後2回の計4本。調書を書く機会の多いことから国語の授業は重視されており、様式にのっとった調書の表記法や漢字が叩き込まれる。学科のもう1つの柱は、法律。憲法、刑法、刑事訴訟法、警察法などの講義を受ける。
いかにも警察官教育らしいのは、実技課目。
犯行現場の保存や実況検分のやり方、実況検分調書の書き方など、外勤警察官に求められる要素を内容とする、外勤1、外勤2。さらに逮捕術や拳銃操法、無線の取り扱いなどの修得が図られる。
京都市南部、洛南――。
京阪本線で南に下り、深草で下車。観光客は進行方向左に折れて琵琶湖疏水を渡り、宝塔寺や石峰寺、瑞光寺を訪ね、全国に広がるおいなりさんの総本宮、伏見稲荷大社に足を伸ばす。
深草で電車を降り、観光客とは逆に進行方向右に折れると、竜谷大学と向かい合って京都府警察学校がある。
4月とはいえ、京都の春には冬の名残を思わせる日がまじる。広島ではほころびかけた桜に送られたタケシは、花見にはもう少し間遠な京都で新しい生活のスタートを切った。
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タケシの同期は、高卒が2小隊、大卒が1小隊。1小隊は、40〜50人ほどで構成される。さらに秋には、中途採用の高卒組が一小隊ほど入ってきた。同期のおよそ半分は地元の京都出身者で、残りは九州出身が多かった。
基本的にはお坊ちゃん、お嬢ちゃんがほとんどだった高校の同級生たちに対し、警察学校の同僚たちは多様である。
父親や兄など家庭内に警察官がおり、ごく素直にこの職業を選んだタイプ。こうしたタイプは一般的に真面目で、警察学校内での成績のよい者が多い。
いかにも正義感が強く、社会悪を許さないといった熱血漢タイプ。高校まで柔道や剣道をやっており、警察でも続けていきたいというスポーツマン。不良っぽいツッパリタイプ。
こうした多様な人種が、24時間の集団生活を送り、6人部屋の2段ベッドで眠る。
高校最後の1年間をまったくの宙ぶらりん状態で過ごしたタケシにとって、警察学校での日常はかなりの手応えがあった。授業で教えられる内容は課題が鮮明で具体的であり、入学前に予想していたよりもはるかに自分にとって面白かった。
授業で体を動かすことにも充実感があった。
さらに放課後のクラブ活動にはサッカーを選び、授業の終わった4時ごろから、毎日2時間ほどボールを追った。
外泊は月に二度許された。その日が近づくと、胸は躍る。
深草駅から京阪本線で四条まで上がり、鴨川を渡って京都一番の繁華街、四条河原町を少しだけ歩き、阪急京都線の河原町駅にもぐりこむ。四条河原町の賑わいにも、タケシは寄り道する気にはなれなかった。ともかくも早く、ヨーコの待つアパートへ帰り着きたかった。
ともに暮らすことを決意したばかりのタケシとヨーコにとって、1日はあまりにも短い。逢瀬の喜びが大きければ大きいだけ、深草へのもどりの時刻が近づくと、タケシの胸は染みた。
京都の冬は酷薄である。
そして、冬に失われた地熱をしゃにむに取り返すかのように、京都の夏は熾烈である。
大地がいっぱいに熱をはらんだころ、ヨーコは臨月を迎えようとしていた。
タケシの母が、広島から駆けつけた。
1972(昭和47)年9月、長子誕生。男の子は、ヒカルと名付けられた。
タケシは18歳の父、ヨーコは19歳の母となった。
そして翌10月、この月に行われた警察学校の試験が、タケシに揺さぶりをかけた。
タケシの成績は、高卒の同期中トップだった。
4月の入学以来、同僚たちとは仲良くやってきた。同室の人間とも、サッカー部の連中ともトラブルはなかった。
タケシが警察官の募集に応じるにいたった心の軌跡は、同僚たちほどまっすぐなものではなかった。日常のあれこれでは仲間たちとうまくやってはいても、内心は隠さざるをえない。
ただし、そうした息苦しさ、奥歯にもののはさまったような歯がゆさはあったものの、タケシは警察学校の課程を終了し、少なくとも数年は警察官として勤務するつもりでいた。
ところが試験の結果にタケシの心は揺れた。
警察学校での試験によい成績をおさめることは、当然のことながら警察官としてやっていく適性を認められたことを意味する。教官からも、試験のあとはことのほか目をかけられる。警察学校での日々に充実感を持ち、授業を面白いと感じ、警官としての適性を認められる――。
「このままいったら、やばいんじゃないか。本当の警察の人になってしまうんじゃないのか」
タケシは迷いはじめた。
卒業後、割り当てられる可能性のある仕事の内容も、タケシの迷いを深めた。成績優良者は、おうおうにして警備関係にまわされることが多い。
警察用語でいう警備とは、共産党や新左翼など左翼関係の情報収集作業である。卒業後、自らが警察官として行っていく仕事の内容が明確になってくるにつれ、タケシの迷いはいっそう深くなった。
内心の迷いは明かさぬまま、タケシは退職を申し出た。理由は「家庭が強く気にかかり警察官の重責を全うできそうもないため」とした。教官はいかにも意外といった表情で、タケシの申し出を聞いた。形ばかりではなく、強く慰留されたが、翻意する気にはなれなかった。
肩に氷の針を刺す京都の冬、タケシは深草を去った。
1973(昭和48)年1月24日付け辞令。
「辞職を承認する。」
この年、日本電気はインテル社のセカンドソースとしてマイクロコンピュータ、μCOM-8の製造を開始した。
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