電話工事の仕事をやめた
富田倫生
2009/10/9
本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、日本のパソコン業界黎明期に活躍したさまざまなヒーローを取り上げています。普段は触れる機会の少ない日本のIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部) |
本連載は『パソコン創世記』の著者である富田倫生氏の許可を得て公開しています。「青空文庫」版のテキストファイル(2003年1月16日最終更新)が底本です。「青空文庫収録ファイルの取り扱い規準」に則り、表記の一部を@ITの校正ルールに沿って直しています。例)全角英数字⇒半角英数字、コンピューター⇒コンピュータ など |
1977(昭和52)年11月、TK-80でベーシックを使うためのTK-80BS発売の直前、ヨーコは二度目の研鑽学校へ出かけていった。
一度しか体験できない特講に対し、研鑽学校へは何度でも出かけることができる。
二度目の研鑽学校へ向かうヨーコの心は、一度目のときよりもかなり変化していた。一度目には、たとえ参画するか否かを問われても、その道は選ばないだろうという予感があった。
だが二度目のこのとき、参画はヨーコにとってもう少し近かった。タケシとの離婚を考えていたヨーコにとって、参画によってタケシとの別離と革命のスタートを同時に実現する道は、かなり現実的に思えた。
2週間の研鑽学校を終えたとき、ヨーコは2人の子供を連れて参画する決意を固めていた。春日山から帰ったヨーコは、お決まりの淡々とした口調で「私は参画するよ」とタケシに告げ「あなたはどうする」と続けた。
ヨーコがその言葉に、別れの決意を込めたことは明らかだった。
しばらくだまりこくったあと、タケシはつぶやいた。
「そんなら、僕も行くわ」
ヨーコがすでに、愛という名の箱にタケシに向けた思いを保ちえないという事実は、タケシの胃袋に鉛を注ぎ込んだ。
しかしそうであるにしても、いっしょに暮らしていくことがまったく不可能なわけではない。苦しくはあっても、タケシはヨーコとの生活を終わらせたくはなかった。
「たとえ最終的には別れることになろうとも、最後までしがみついてみよう」
タケシはそう決意した。
高校卒業の間近、ヨーコと結婚することを決意したとき、タケシは宙に浮いたままの自分がようやく確固たるものにつなぎとめられたような感覚を味わった。ヨーコとの2人の共和国づくりは、充分に手応えのある生きることの意味に思えた。
今ここでヨーコと別れてしまうことは、タケシにとってそれ以来積み上げてきたことのすべてを失うことに思えたのである。
翌1978(昭和53)年の3月いっぱいで、タケシは足かけ6年にわたって続けてきた電話工事の仕事をやめた。
4月1日から2度目の研鑽学校に参加するとき、タケシは参画する意思を固めていた。2週間のZ革命への体験的参加を通じて、タケシの参画への決意はもう少し強固になっていた。もしかするとヨーコは参画の決意を翻すのではないか、という予感はあった。しかしたとえそうなったにせよ、タケシは参画を取りやめまいと考えていた。ヨーコが参画しないときは、要するに2人にとっての最終的な別れを迎えることになろう。とすれば、別離によって生じた精神の空白と向き合って生きるには、やはり参画してヤマギシズムによる自己変革の旅に出る以外ないのではないか。タケシには、そう思えたのである。
春日山から帰ったタケシを、ヨーコは近くの喫茶店にさそった。
「私、参画やめるわ」
目の前のコーヒーには手をつけようとせず、ヨーコはそう言った。
予想しなかったことではない。だが、言葉の裏にある離婚の決意の固さは、タケシを刺した。しかしその痛みにも、ヨーコに伸ばした腕をタケシは離さなかった。
研鑽学校から帰った翌日、タケシとヨーコは山口へ向かった。2人の子供たちは、タケシの母が見てくれていた。かつてヨーコを特講にさそった、高校教師夫妻を訪ねるつもりだった。2人では解ききれぬ問いを、「放」す場が欲しかったのである。
夜更けまで、つらい「放」し合いが続いた。
朝、目覚めたとき、ヨーコはいなかった。
「東京へ行ったよ」
教師はそう答えた。
タケシは新幹線に乗り、東京へ向かった。ヨーコが訪ねるだろう数人の友人は、タケシに思い当たった。
東京で再会したとき、2人にはもう「放」すことも残されていなかった。京都から山口、そして山口から東京へと続いたあわただしい旅は、6年間2人で歩き続けてきた旅の終わりを確認するためにのみ必要だったのだろう。
「荷作りに帰る」というヨーコを、最後は九段下で見送った。
市ケ谷から飯田橋へと続く堀端、靖国神社、そして武道館を取り巻く北の丸公園と、あたりは桜の名所である。だがタケシの目には、開きかけた桜と空の青とがひどく調子っぱずれに映った。
生命の横溢を謳う春の華やぎが、タケシには残酷だった。心に生じた空白は、体重を何倍にも増加させたようだった。重い体を引きずって、実顕地に入る準備を始めようとするが、すぐに立ちつくしてしまう。
タケシは数日、友人のアパートに転がり込んだままでいた。
4月20日、友人のアパートにヨーコからの電話があった。受話器を受け取ったタケシは、あっけにとられていた。
「私も行くことにした」
ヨーコは確かにそう言ったのである。
精神のジェットコースターに乗って、タケシは沈鬱の底から昂揚の高みまでを駆けめぐった。
タケシの脳の神経回路は灼熱化しはじめていた。
1978(昭和53)年4月30日、タケシとヨーコはヒカルとタエコを連れ、ヤマギシズム生活豊里実顕地へと向かった。
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