日電オフコン「システム100」、マイコン化に先駆ける |
システム100
富田倫生
2010/1/13
本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、日本のパソコン業界黎明期に活躍したさまざまなヒーローを取り上げています。普段は触れる機会の少ない日本のIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部) |
本連載は『パソコン創世記』の著者である富田倫生氏の許可を得て公開しています。「青空文庫」版のテキストファイル(2003年1月16日最終更新)が底本です。「青空文庫収録ファイルの取り扱い規準」に則り、表記の一部を@ITの校正ルールに沿って直しています。例)全角英数字⇒半角英数字、コンピューター⇒コンピュータ など |
東京大学工学部電気工学科の修士を卒業した戸坂は、1966(昭和41)年に日本電気に入社した。当時は修士出の多くが研究所にまわされていたが、「物作りがやりたいので研究所には行きたくない」と配属前の面接で訴え、オンラインで中央のコンピュータと結んで使う銀行の端末装置作りの仕事についた。
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戸坂の配属されたデータ通信の端末装置担当セクションで、先輩の浜田は当時新しいタイプの技術に取り組み、その可能性に確信を持つにいたっていた。
きっかけとなったのは、ハネウェルから技術導入して作ったNEAC-2200という大型機に付ける、通信制御装置の開発だった。
通信回線の制御を担当するこの装置には、かなり込み入った複雑な処理が求められた。従来どおり、配線のパターンを焼き込んだプリント基板の上に電子部品を並べて回路を作っていったのでは、基板の枚数も多くなり、配線はすさまじく入り組んで、故障のもととなる接点の数も膨れ上がると思われた。当然信頼性の確保は困難になり、一度仕様変更ということになれば、大変な手間をかけて設計と配線をやりなおすことを覚悟せざるをえなかった。
そこで浜田は、発想をまったく切り替えてごく小規模なコンピュータの中央処理装置(CPU)を中心にシステムを構成しようと考えた。
まずIC化した部品の組み合わせによって、一種のコンピュータを作る。このCPUにROMに収めたプログラムを実行させて求められる機能を実現する。こうした方式を採用すれば、回路はかなり整理され、仕様の変更があってもプログラムを書き換えるだけで対応できる。
あくまで通信制御装置の開発を目的としている以上、このプロジェクトで浜田たちは、1個の集積回路にCPUを作り付けるところまで踏み込まなかった。だが浜田はこの装置の開発作業を通じて、マイクロプログラミングと呼ばれるこうした手法の有効性を実感していた。
システム100と名付けられることになる新しい超小型機の開発にあたっても、浜田はこの手法をなぞろうと考えた。
すべての機能を回路に作り付けてしまうワイヤードロジックに代え、シンプルなCPUとプログラムの組み合わせで機能を組み立てるという発想をより徹底させれば、はじめから1つにまとまったマイクロコンピュータを使うというアイディアが当然浮上してきた。だがシステム100の初代機の開発を進めていた1972(昭和47)年当時、市場にあったのは4ビットのインテルの4004や、特殊な用途に対応した限られた製品のみだった。
1973(昭和48)年8月に発表されたオフィスコンピュータ、システム100は、マイクロプログラミング方式をとっていたが、マイクロコンピュータの採用にはいたっていなかった。
デスク型の本体の脚部は赤、机上は白に塗り分けられたマシンはかなり小型には仕上がっていた。
だが浜田には、まだまだ小型化を推し進められるとの思いが残った。
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