日電オフコン「システム100」、マイコン化に先駆ける |
マイクロコンピュータ N6300シリーズ
富田倫生
2010/1/15
本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、日本のパソコン業界黎明期に活躍したさまざまなヒーローを取り上げています。普段は触れる機会の少ない日本のIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部) |
本連載は『パソコン創世記』の著者である富田倫生氏の許可を得て公開しています。「青空文庫」版のテキストファイル(2003年1月16日最終更新)が底本です。「青空文庫収録ファイルの取り扱い規準」に則り、表記の一部を@ITの校正ルールに沿って直しています。例)全角英数字⇒半角英数字、コンピューター⇒コンピュータ など |
通信制御装置の開発でマイクロプログラミングの手法を体験した浜田俊三は、初代のシステム100の開発にあたってもこの技術を選んだ。
情報関連の機器に求められる機能のレベルが高まれば、回路はそれに伴って複雑なものとなる。その一方で、半導体にたくさんの回路を作り付ける技術が目覚ましく進歩した結果、半導体を利用したメモリーの価格は一貫して下がりつつあった。そうした2つの流れからの圧力を受けて、さまざまな機器のエンジニアたちが、複雑な専用回路を作る代わりに簡単なCPUを集積回路化し、ROMに収めたプログラムによって機能を実現する方が賢明であると判断しはじめた。
使い物になるマイクロコンピュータを集積回路屋が用意してくれるのなら、使わない手はなかった。
かつて浜田が籍を置いていた端末装置事業部のエンジニアたちもまた、そう考えた。
1973(昭和48)年10月、端末装置事業部は日本電気の製品としては初めてマイクロコンピュータを使ったN6300シリーズの発表を行った。
銀行の窓口業務などに使われてきた従来の端末やテレタイプは、それ自体は処理の能力を持たず、入力したデータをそのまま中央のコンピュータに伝え、コンピュータからの指示に従って出力を行うだけだった。
これに対し、端末自体にある程度の処理能力を持たせ、中央のコンピュータの負担を軽減するとともにさまざまな機能を付け加えていこうとする発想が、この時期浮上してきていた。
数値だけを扱う電卓用に4ビットの4004を作ったインテルは、端末に使うことを考えてアルファベットに対応した8ビット構成の8008を発表していた。
一方、N6300には、「インテリジェントターミナル」と銘打ったこの装置のためにあらたに日本電気の半導体セクションが開発した、8ビットのDT-1が組み込まれた。1つのチップにまとめられてはいなかったが、DT-1は3個のLSIのセットでCPUを構成していた。
従来の端末にないたくさんの機能を盛り込んだにもかかわらず、集積回路の採用が効いてN6300はきわめて小型に仕上がった。これまでどおりのキーボードとプリンターでユーザーに向き合うタイプに加え、N6300にはディスプレイを採用した機種も用意されていた。
システム100の初代機ではマイクロコンピュータの採用にいたらなかったオフィスコンピュータの開発部隊にも、この強力な技術を忌避する理由などあるはずがなかった。
問題は、充分な性能の得られるマイクロコンピュータが適当な価格で手に入るか否かだけだった。
1974(昭和49)年の終わり、海の向こうのアメリカでは充分な性能も糞もなく、MITSが裸同然のアルテアを無理矢理船出させていた。
一方、既存の機種の性能を落とすことなど考えられない浜田たちは、1975(昭和50)年8月に発表したシステム100Gと100Hという2つの後継機でも、マイクロコンピュータの採用に踏み切れなかった。
だがオフィスコンピュータ市場を舞台とした三菱電機や東芝との激しい競争は、浜田たちにさらなる価格切り下げの圧力をかけていた。浜田は翌1976(昭和51)年に発表するシステム100の次の機種で、マイクロコンピュータを採用する可能性を探ろうと考えた。
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