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パソコン創世記
パロアルト研究所を超えて芽吹く、ダイナブックの種子

ジェフ・ラスキン

富田倫生
2010/3/30

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本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、日本のパソコン業界黎明期に活躍したさまざまなヒーローを取り上げています。普段は触れる機会の少ない日本のIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部)

本連載は『パソコン創世記』の著者である富田倫生氏の許可を得て公開しています。「青空文庫」版のテキストファイル(2003年1月16日最終更新)が底本です。「青空文庫収録ファイルの取り扱い規準」に則り、表記の一部を@ITの校正ルールに沿って直しています。例)全角英数字⇒半角英数字、コンピューター⇒コンピュータ など

 ワークステーションという新しい花を咲かせたこの時期、アルトはもう一方でパーソナルコンピュータにも大きな影響を与えていた。

 クラシックの音楽教育を受け、絵を描くことにも巧みだったジェフ・ラスキンは、ペンシルベニア州立大学で「どうすればこの道具をもっと使いやすいものにできるか」という観点からコンピュータに取り組んだ★。人間はコンピュータより大切なものであり、マシンの要求に人を屈服させるのではなく、人の弱点をカバーするようにシステムは設計しなければならないという異端的な確信を当時から抱いていたラスキンは、アイヴァン・サザーランドのスケッチパッドに強い影響を受けた。

 ★『マッキントッシュ伝説』所収のジェフ・ラスキンへのインタビューによれば、彼の学位論文のタイトルは「The Quick Draw Graphics Systems」であったという。マッキントッシュの開発過程で、ラスキンはスティーブン・ジョブズとの軋轢によってアップルを去ることになった。だが彼の関与の跡は、マッキントッシュ用の描画ルーチン、Quick Draw の名称に残された。

 1960年代のはじめにはニューヨークで前衛芸術運動に携わる一方で、エンジニアとして働いていたラスキンは、1970年代に入ってからカリフォルニア大学サンディエゴ校の小規模なコンピュータセンターの所長となり、同校をはじめとするいくつかの大学でプログラミングやコンピュータアニメーション、コンピュータ音楽を教えるようになった。スタンフォード研究所の客員研究員となった一時期、ラスキンは繰り返しパロアルト研究所を訪れて、自分の発想に沿った形で進められているアルトの研究に触れていた。

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 1975年になってマイクロコンピュータを使ったキット式のシステムが一部のホビイストたちに熱狂的に支持されはじめると、大半の正統的な研究者がおもちゃ以前のシステムに興味を持たなかった中で、ラスキンはさっそくアルテア、続いてIMSAIを買い求めた。

 さらに彼は自宅の地下室に組み立て済みのアルテアやIMSAIを並べ、エレクトロニクスの基礎知識と経験者からのアドバイスなしでは、とても満足に組み立てられないキットについて、興味を持った者に教えはじめた。ホームブルー・コンピュータ・クラブの集会にも顔を出すようになったラスキンは、アマチュアのマニアとは異なった研究者としての立場から発言しはじめた。自由と率直と新しい発想を愛するラスキンは、マイクロコンピュータで自分のシステムを作ろうとする試みに期待するところが大きかったが、研究者としての視点からは生まれたばかりのこの世界が対処すべきおびただしい課題がよく見えていた。

 クラブの集会におけるラスキンの発言に興味を持った『DDJ』の編集者は、しっかりとした技術的な力を持った者の視点を求めて彼に原稿を依頼した★。アルテアをはじめとする当時の製品が、普通の人に組み立ててもらえるようなレベルにはとても仕上がっておらず、マニュアルもまったく行き届いていない点を大きな問題と感じていたラスキンは、原稿でその点を指摘した。するとこの記事を読んだメーカーから、マニュアルの執筆依頼が舞い込んできた。その後も『DDJ』や『バイト』誌にレポートを書き続けたラスキンには、マニュアルの仕事の口もつぎつぎとかかってきた。ラスキンは人を雇い入れて会社を作り、マニュアル制作を本格的に請け負うようになった。

 ★『DDJ』にジェフ・ラスキンに関する記事が載ったのは、筆者の確認した限り1976年8月号が最初である。無署名ながらおそらく同誌の編集を取り仕切っていたジム・ウォーレンのまとめたと思われる短い記事が、「ホームブルー・コンピュータ・クラブの5月26日の集会で、ジェフ・ラスキンがフローという教育用の言語に関して発言し、非常に多くのメンバーの興味を引いた」ことを報告している。同誌の翌月号には、ラスキンがさまざまなキットや周辺機器の問題点を個々の製品ごとに詳しく指摘した長文の原稿を寄せているところを見ると、集会でラスキンに興味を持ったウォーレンがさっそく原稿を依頼したのではないかと推測できる。

  この原稿の最後に書き込まれたラスキンの注文は、その後の彼の歩みを先取りしている点で興味深い。

  「もし製造業者側が、組み立ての工程やマニュアルをこうしたモジュールの設計に慣れていない人を使ってテストしていれば、自分たちのスタイルをどうあらためるべきか、すぐに発見できるだろう。そしてもし我々ユーザーが、不適当な部品を組み合わせたキットを買うことをやめ、よく書かれたマニュアルを要求するようにすれば、よりよいキットとマニュアルを手にすることができるようになるだろう」

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