パロアルト研究所を超えて芽吹く、ダイナブックの種子 |
リサのインターフェイス
富田倫生
2010/4/1
本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、日本のパソコン業界黎明期に活躍したさまざまなヒーローを取り上げています。普段は触れる機会の少ない日本のIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部) |
本連載は『パソコン創世記』の著者である富田倫生氏の許可を得て公開しています。「青空文庫」版のテキストファイル(2003年1月16日最終更新)が底本です。「青空文庫収録ファイルの取り扱い規準」に則り、表記の一部を@ITの校正ルールに沿って直しています。例)全角英数字⇒半角英数字、コンピューター⇒コンピュータ など |
ラスキンはマッキントッシュ開発の承認を得ようとトップを口説き、1979年の9月から、ひとまず彼1人で進める研究プロジェクトとしてのお墨付きを得て作業に取りかかった。だが基本的には他人の提案に聞く耳を持たないジョブズは、以降も何度かこのプロジェクトは不要であると主張した。ラスキンは、今度こそジョブズにパロアルト研究所の成果を見せて彼の視野を広げ、マッキントッシュのプロジェクトを生き延びさせようと考えた。
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当時アップルは拡大する事業規模に見合った体制を固めるためにあらたな非公開増資を計画しており、同社の急成長に注目していたゼロックスの投資部門とのあいだで、10万株を100万ドルで売却する取り引きがまとまった。ゼロックス側はパロアルト研究所の見学にジョブズを誘い、1979年12月、ジョブズは当時社長を務めていたマイク・スコットや「リサ」の中心的なソフトエンジニアのビル・アトキンソン、ジェフ・ラスキンらとともに研究所を訪ね、アルト上のシステム開発を行っていたラリー・テスラーによるデモンストレーションを体験した。
アルトのディスプレイ上にウインドウが重ね合わせて開かれ、アイコンが操作され、ワードプロセッサーの文章中の書体が自由に変更される様を凝視していたビル・アトキンソンは、文字も含めたすべての要素をグラフィックスとして扱うという「リサ」の方向付けが正しかったことを、あらためて確信させられた。
アトキンソンはすでに、「リサ」のために高速の描画ルーチンを書いていた★が、インターフェイスの方向付けはまだ固まっていなかった。だが、ジョブズにとってアルトは、インターフェイスのアイディアの宝庫だった。1時間半ほどのデモンストレーションが終わったとき、ジョブズは興奮を抑えきれず、ゼロックスの関係者に「これだけのものがあって、なぜ何も作ろうとしないんですか」と問いただした。
★ビル・アトキンソンはカリフォルニア大学サンディエゴ校(UCSD)でジェフ・ラスキンに教わった経験を持っており、スティーブン・レヴィの『マッキントッシュ物語』(武舎広幸訳、翔泳社、1994年)によれば、同大学でラスキンが主宰していたアングラ劇団の演出を手伝ったことがあった。ワシントン大学でコンピュータ科学と神経科学を専攻したアトキンソンは、卒業後、いったんは医学研究用のシステムを作る仕事についたが、ラスキンに誘われて1978年にアップルに入った。入社直後は、アップル自身が開発するアプリケーション部門を1人で担当することになり、広告用にでっち上げられていた株価情報の分析アプリケーションを本当に作ってみせる仕事から着手した。このソフトウエアを開発する際、アトキンソンはまず、UCSD版のパスカルをアップルII 用に移植した。この作業の過程で、自分自身でもパスカルのグラフィックルーチンを書いた。続いて「リサ」のプロジェクトを担当することになったアトキンソンは、画面上に素早く表示を書き上げるための描画ルーチンを開発し、このルーチンはラスキンの学位論文がもとになって Quick Draw と名付けられた。以上の経緯は『マッキントッシュ伝説』所収、ジェフ・ラスキンへのインタビューに詳しい。 |
ジョブズはアルトを前にして、「リサ」でなすべきことを確信した。
「リサ」のインターフェイスは、ウインドウやアイコン、マウスを中心に組み上げるという方針が、見学後急遽定められ、アルト用にエディターを書いた★経験を持ち、アップルの面々にデモンストレーションを見せてくれたラリー・テスラーが引き抜かれて「リサ」の開発チームに加わった。
★アルト用のエディターとしてもっとも広く使われたものは、パロアルト研究所のチャールズ・シモニーとバトラー・ランプソンによって開発されたブラヴォーだった。ブラヴォーは素早い画面の書き換えや、文書のサイズにかかわらず編集作業の処理速度を一定に保てること、WYSIWYGなどの特長を備えていたが、ユーザーインターフェイスに関しては改善の余地を残していた。ラリー・テスラーとティム・モットはインターフェイスの改善に目標を絞って、ジプシーと名付けたエディターを書いた。 |
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