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パソコン創世記
京セラ、稲盛との出会いが生んだ2つの未来志向マシン開発計画

西のハンドヘルドコンピュータ

富田倫生
2010/4/6

「サイバネット工業という隠し玉」へ

本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、日本のパソコン業界黎明期に活躍したさまざまなヒーローを取り上げています。普段は触れる機会の少ない日本のIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部)

本連載は『パソコン創世記』の著者である富田倫生氏の許可を得て公開しています。「青空文庫」版のテキストファイル(2003年1月16日最終更新)が底本です。「青空文庫収録ファイルの取り扱い規準」に則り、表記の一部を@ITの校正ルールに沿って直しています。例)全角英数字⇒半角英数字、コンピューター⇒コンピュータ など

 1981(昭和56)年秋、サンフランシスコから成田に向かう機中で西和彦が次世代のパーソナルコンピュータの可能性を吹きまくった相手は、「京都セラミツク」の稲盛和夫だった。

 西を水先案内人とした「京都セラミツク」のパーソナルコンピュータ開発計画は、2人を乗せた飛行機が成田に到着する前に、すでに走りはじめていた。

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 1982(昭和57)年1月、西和彦はビル・ゲイツの前にハンドヘルドコンピュータの設計図を広げた。

 アルファベット40字を8行表示できる大型の液晶ディスプレイを備えた8ビット機で、これにワードプロセッサと通信のためのソフトウエア、モデムを組み込んでおき、外出先で書き終えた原稿をそのまま電話で送れるようにする。

 マシンの開発と製造には、西が話をつけてきた日本の「京都セラミツク」があたる。この会社が準備するハードとマイクロソフトのソフトを組み合わせ、すでにパーソナルコンピュータの販路を持っている企業に売り込みたい。

 この西のプランに、ビル・ゲイツは関心と懸念とを等分に抱いた。

 でき上がったハードウエアにあとから言語やOSを供給する立場のマイクロソフトにとって、イメージ固めの時点から開発に加わることは、じつに魅力的な作業だった。パーソナルコンピュータをどう進化させるか、その進路を決めるにあたって、マイクロソフトの基本ソフトの方向付けはきわめて大きな役割を果たした。だが、ハードウエアの方向付けに強制力を持たないマイクロソフトがやれることには、限りがあった。

 ゼロックスのアルトの精神を汲む子供たちは、最終的にマシンがどう使われるかはっきりとイメージを固めたうえで、1つの設計思想にもとづいてハードとソフトを用意していた。だがマイクロソフトには、両者の理想的な組み合わせを実現することは困難だった。

 PERQやスターを見せつけられ、スティーブ・ジョブズからマッキントッシュへの協力を求められたゲイツには、アルトの成果を取り入れたインターフェイスをすぐにでも作ってみたいという気持ちがあった。だが、今後のパーソナルコンピュータの標準としてかつごうとしているIBM PCは、8ビットの尾を引きずった8088を使っており、グラフィックスの処理能力もメモリーも、視覚的な操作環境を載せるにはあまりに不充分だった。

 ハードウエアの決定権を持たないことに潜在的な欲求不満を抱いていたゲイツにとって、スタートからプロジェクトに参加するという西の提案は、その点ですでに興味深かった。

 さらに、通信機能を備えたハンドヘルドコンピュータというアイデア自体にも、可能性を感じさせられた。だがそのマシンを8ビットで構成するという点には、承服できなかった。

 西にいわせれば、消費電力を抑える点で8ビットは有利であるという。さらにこの時期、大ヒットの兆しを見せはじめたPC用にIBMが8088を大量に押さえてしまったため、安価な16ビットの第1の候補である8088が量産ベースでは確保しにくくなっているという事情もあった。それでも、ゲイツはこのプロジェクトを16ビットで進めるべきだと考えた。一方、すぐにでも作業を進めたいという西も譲らず、結局リスクは全面的にアスキーが負うとの条件で、ゲイツはプロジェクトを黙認することになった。

 1982(昭和57)年4月、西はテキサス州フォートワースのタンディに、仕上がったばかりのハンドヘルド機のプロトタイプを持ち込んだ。のちにマイクロソフトに移って社長を務めるタンディのジョン・シャーリー副社長に向かい、ポータブルなマシンの可能性を懸命に説いた西は、その場で販売引き受けの約束を取り付けた。

 アスキーの山下良蔵、鈴木仁志、林淳ニの3人はこれ以降、「京都セラミツク」の技術者とともにシアトルのマイクロソフトに詰めてハンドヘルド機用のソフトウエアの開発にあたった。ベーシックをはじめ、ワードプロセッサ、通信などすべてのプログラムを32KバイトのROMに収め、いつ不意に電源を切られても作成した文章を安全に守るといった新しい課題にも挑戦した作業には、マイクロソフトのスタッフはまったくかかわらなかった★。

 ★このポータブルマシンのソフトウエア開発に関連して、『帝王の誕生』はプログラマとしてのビル・ゲイツの天才ぶりを印象づけるエピソードを紹介している。

 同書の記述によれば、ゲイツは3人の日本人の書いたプログラムのうち、行番号で管理する形式のエディタに不満を感じた。だがプログラマたちは、その他の要素を32Kバイトに押し込んでいるために、画面上の任意の文字を直接修正できるフルスクリーンのエディタを入れる余裕がなく、変更は不可能であると主張した。すると次の朝、ゲイツは同じサイズに収まる〈不可能なはずの〉エディタをたずさえて現われた。このマシンのデータ構造を決め、ユーザーインターフェイスの一部を設計したのもゲイツだった。マイクロソフトの製品として出荷されたプログラムをゲイツが書いたのは、これが最後となった。事業上の意思決定の要求はますます強まり、ゲイツはコード書きにかかずらってはいられなくなった。

 一方、問題のエディタに直接携わった鈴木仁志は、開発の経緯をより詳細に、そしてより正確に記憶している。

 『帝王の誕生』の記述どおり、当初エディタにはベーシックそのものが持っていた行番号単位のものに若干の味付けを施して、汎用エディタらしく見せたものを使っていた。このエディタを含むソフトウエアは、マスクROMに焼かれ、試作品に組み込まれて評価された。ビル・ゲイツは試作機をいじくり回して真っ先にエディタに注文をつけ、作りなおしを主張した。開発スケジュールを最優先していた「京都セラミツク」側はこの提案に難色を示したが、結局は押し切られた。エディタを担当していた鈴木は、厳しいメモリの制限の中で、いかにしてスクリーンエディタを実現するかに頭をひねった。テキストのデータ構造と、画面上に表示するテキストと表示位置をどう結びつけ、管理するかを2日ほど考え続けた鈴木は、実現可能と思われる構造をまとめ上げた。ちょうどその段階で、ゲイツは「エディタの構造について話がしたい」としてアスキーの3人を社長室に招いた。ホワイトボードを使って説明しはじめたゲイツのアイデアは、鈴木のまとめた結論と同じだった。

 説明を終えたゲイツに、「驚いた、私の考えていたこととまったく同じだ」と鈴木は応えた。にやりと笑いながら「本当か?」とたずねたゲイツに、鈴木は2人のアイデアの先に生じる問題につい問い返した。「そのデータ構造を採用したとき、領域コピーはどう実現するのか?」という鈴木の問いに、ゲイツは「領域の最初と最後に印を付ければよい」と答えた。そうした手法ではうまくいかない場合があることを事前に詰めていた鈴木がその旨を説明すると、ゲイツはすぐに鈴木が独自にアイデアにたどり着いていたことを納得した。エディタのコーディングは、とても一晩で終わる規模ではなかった。「私はビルほどの天才でないので」と断りながら、なんとか動作する最初のバージョンを書き上げるまでに「10日ほどかかった」と鈴木は回想する。最終的にこのポータブルマシンに関して、ビル・ゲイツを含むマイクロソフトの誰も、一行たりとも新しいコードは書かなかった。

 ただし『帝王の誕生』にある「このマシンのデータ構造を決め、ユーザーインターフェイスの一部を設計したのはゲイツであった」という記述を、鈴木は正確であるとする。

 32Kバイトのメモリの制約があったため、このマシン用のソフトウエアはマイクロソフトのベーシックの構造をそのまま利用し、そこにテキストエディタや通信ソフトをかなり強引に付け加えるという手法で開発された。そのおおもとのベーシックをビル・ゲイツが設計している以上、「マシンのデータ構造を決め」たのは誰かと問題を立てれば、その答えはゲイツである。またカーソルキーだけを押せばカーソルは隣に移動するが、シフトキーと組み合わせればより遠くへ、コントロールキーと組み合わせればさらに遠くへ飛ぶというアイディアを提案するなど、ゲイツがインターフェイスの改良と統一に関して貢献したのも事実であると鈴木は証言する。

 以上、ポータブルマシンのソフトウエア開発をめぐる〈神話〉の形成に関して長々と触れたのは、この1件がパーソナルコンピュータの正史がまとめられる過程でしばしば機能するある〈力学〉を象徴的に反映していると考えたからである。

   『帝王の誕生』の著者たちは、マイクロソフトの日本法人であるマイクロソフト株式会社にアスキーから移った古川享のコメントをもとに、このエピソードに関して記述している。古川はおそらく、「できの悪いラインエディタを作りなおすよう命じ、フルスクリーンのエディタに関するアイディアを一晩でまとめてプログラマたちに指示した」経緯を、ゲイツから聞かされたものと思われる。そのエピソードを古川が取材者に明かすまでの過程では、どこにも嘘はない。「アイデアを一晩でまとめた」経緯が、ある種の伝言ゲームの中で「一晩でコードを書き終えた」となることは、ノンフィクションに避けがたくついて回る〈事故〉である。筆者自身、繰り返しそうした事故に足を取られてきたし、本書にも膨大な数のその種の誤りが紛れ込んでいるだろう。ただしそのことを重々踏まえたうえで、この1件はそれでも筆者には興味深かった。

 パーソナルコンピュータ産業において、マイクロソフトがきわめて大きな成功を収めている以上、取材者の関心は当然、同社とビル・ゲイツに集まってくる。その傾向は、少なくとも今後しばらくのあいだは強まり続けるだろう。もちろんゲイツの貢献がきわめて大きいことは、事実である。ただし誕生当初のパーソナルコンピュータは、ある種の大衆運動に支えられて成長しており、おびただしい数の有名、無名の人々がこの文化のキックオフに貢献してきたこともまた、揺るぎのない事実である。ソフトウエア産業の成長の過程でも、たくさんの人間がたくさんのアイデアを出してきた。商業的にもっとも成功したのがマイクロソフトであることは論を待たないが、同社が何から何までをやってくれたわけでないことは、あらためてそんなことを口にするのも馬鹿らしいほど明らかである。

 だが、取材者が少し怠慢であれば、マイクロソフトの商業的1人勝ちの構図が生み出す〈力学〉の歯止めのない発動を許し、ビル・ゲイツの偉大さにすべてを帰するパーソナルコンピュータの神話を大量にコピーして世の中にまき散らす結果になりがちである。ビル・ゲイツの偉大な才能によって、ベーシックが〈発明〉され、パーソナルコンピュータが目覚ましく発達していったという類の認識が、伝言ゲームの結果、再生産されやすい場で我々が暮らしていることは、自覚しておいた方がいい。

 世界有数の大富豪となったゲイツには、俗に表現すれば「けち」という〈神話〉がつきまとっている。このもう1つの神話に関しても、鈴木仁志氏は興味深い証言を寄せてくれた。最終的にポータブル機のソフトウエアが自分のイメージに非常に近い形で実現したことを喜んだゲイツは、アスキーの3人に個人的にボーナスを支払った。小切手の額面は、「500ドルではなかったか」と鈴木氏は記憶する。1982年のレートではかなりの金額に感じられたこの小切手を、3人は当然、現金化した。だが、その後世界一の大富豪となった、付き合った実感からすれば「むだな金はいっさい使わない」人物が個人的に振り出した小切手の、せめてコピーでもとっておかなかったことを、鈴木氏は今、非常に残念に思っているという。

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