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パソコン創世記
第2部 第5章 人ひとりのコンピュータは大型の亜流にあらず
1980 もう1人の電子少年の復活

コンピュータ少年、プログラマになる

富田倫生
2010/5/17

前回「電子少年ウォズニアック」へ

本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、日本のパソコン業界黎明期に活躍したさまざまなヒーローを取り上げています。普段は触れる機会の少ない日本のIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部)

本連載は『パソコン創世記』の著者である富田倫生氏の許可を得て公開しています。「青空文庫」版のテキストファイル(2003年1月16日最終更新)が底本です。「青空文庫収録ファイルの取り扱い規準」に則り、表記の一部を@ITの校正ルールに沿って直しています。例)全角英数字⇒半角英数字、コンピューター⇒コンピュータ など

 1963年にクパチーノに新設されたホームステッドハイスクールは、急増するハイテック企業の従業員の子弟を一手に受け入れた。この高校で、エレクトロニクスの授業を担当したジョン・マッカラムとの出会いは、ウォズニアックの傾斜にいっそう拍車をかけた。

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 厳しいNASAの規準には適合できなかったものの、地上でなら充分使い物になるトランジスターを部品メーカーから大量に調達したり、電子機器メーカーから用済みとなった計測器を仕入れてきたりと、環境の特殊性を存分に生かして、マッカラムは教室の整備に努めた。エレクトロニクスキッズに系統立った理論を叩き込んだ彼は、生徒たちが持ち込んでくる手作りの機器に評価と助言を与えて応用力の育成にも努めた。ウォズニアックはマッカラムの授業を満喫し、エレクトロニクスクラブと数学クラブの部長を務め、科学展に応募しては賞をさらった。

 マッカラムはコンピュータを教えることはなかったが、ウォズニアックの興味はこの分野にも広がっていった。足し引きに加え、掛け算や割り算の機能を備えた計算機作りに取り組んでいたウォズニアックを見て、マッカラムは軍用の電子装置を作っていた会社のコンピュータ室で勉強できるように、手はずを整えてくれた。下級生でやはりコンピュータに興味を持っていたアレン・ボームと、週に1度通うことになったこの部屋で出合ったIBMの1130が、ウォズニアックの初めてのマシンとなった。2人はフォートランでプログラムを書くことを覚え、パンチしたカードをリーダーに読みとらせてコンピュータを動かすチャンスを与えられた。

 コンピュータにのめり込むようになったウォズニアックとボームにとって、スタンフォード大学の線型加速器センターは情報の泉だった。2人はセンターのコンピュータ室に収まっているIBMの360を見せてもらい、この施設のカード穿孔機を使うことを許された。センターの図書館にはコンピュータ関係の書籍や雑誌がそろっており、土曜日と日曜日はここに入りびたるようになった。雑誌にはさみ込まれている資料請求の葉書を手当たりしだいメーカーに送って、ウォズニアックは自宅にパンフレットやマニュアルを取り寄せた。知り合いがくれた、ディジタルイクイップメント(DEC)の『スモール・コンピュータ・ハンドブック』は、ウォズニアックにとって最高の教科書となった。


 ハイスクール時代の後半を、コンピュータの回路設計に夢中になって過ごしたウォズニアックは、父の母校であるカリフォルニア工科大学の受験に失敗し、地元のデアンザ・コミュニティー・カレッジにしばらく籍を置いたあと、1968年、コロラド大学に入りなおした。

 大学に籍を置いたというよりもむしろ、CDC社の6400の収まっていたコンピュータ室に所属した形のウォズニアックは、書き上げたプログラムをつぎつぎとマシンに流し込んで使用時間を稼ぎはじめた。

 常にコンピュータ室にたむろしては、使用時間に対応したレンタル業者の請求額をうなぎ登りに増加させるウォズニアックは、すぐに学校側に目を付けられた。退学をちらつかせてコンピュータの使用時間を制限しようとする大学側に対し、ウォズニアックは弁護士を雇って対抗したが、結局1年ほどでコロラド大学を去った。

 1969年、再びデアンザ・コミュニティー・カレッジに舞い戻ったウォズニアックは、テネット社という地元のミニコンピュータのメーカーで、プログラマとして働きはじめた。もう一方でコンピュータの設計に関する勉強を独学で続けていたウォズニアックにとって、データジェネラル社のミニコンピュータ、ノバ★は当時、あこがれのマシンだった。テネットが倒産して当面の仕事を失ったウォズニアックは、ノバを手本にしてコンピュータの自作を試みた。

 ★DECでPDP-8を設計したエドソン・デ・カストロは、同社を離れてデータジェネラルを設立し、12ビット構成のPDP-8を16ビット化してノバを開発した。パネルに安っぽいトグルスイッチとランプを並べたデザインは、アルテアのルーツを思わせるそっけない作りだったが、ノバは当時としてはきわめて速かった。低価格という要素も加わって、このマシンは大きな成功を収めた。アルトのハードウエアの開発にあたって、パロアルト研究所のエンジニアはノバのCPUの命令セットにもとづき、これを大幅に強化する道を選んだ。

 地の利を生かし、父や知り合いのつてを頼って部品を集めたウォズニアックは、近くに住むハイスクールの後輩のビル・フェルナンデスを引き込んで、クリームソーダ片手に数週間ぶっ続けで作業に取り組んだ。4ビットの中央処理装置を2つ組み合わせ、メモリーは256バイト。コンピュータとして機能する最小限のハードウエア構成で仕上げられたマシンは、クリームソーダコンピュータと名付けられた。8つのスイッチを上下させてプログラムを入力し、数字を送り込むと、マシンはランプを点滅させて計算の結果を示し、コンピュータとして確かに動いて見せた。

 フェルナンデスは作業場となった自宅のガレージに同級生のスティーブ・ジョブズを呼んで、仕上がったマシンを披露した。

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