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パソコン創世記
第2部 第5章 人ひとりのコンピュータは大型の亜流にあらず
1980 もう1人の電子少年の復活

「マイコンの世界」、2人の若きタレント

富田倫生
2010/6/17

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本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、日本のパソコン業界黎明期に活躍したさまざまなヒーローを取り上げています。普段は触れる機会の少ない日本のIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部)

本連載は『パソコン創世記』の著者である富田倫生氏の許可を得て公開しています。「青空文庫」版のテキストファイル(2003年1月16日最終更新)が底本です。「青空文庫収録ファイルの取り扱い規準」に則り、表記の一部を@ITの校正ルールに沿って直しています。例)全角英数字⇒半角英数字、コンピューター⇒コンピュータ など

 半導体業界には、セカンドソースと呼ばれる2次供給元を確保して、コピー製品の誕生を積極的に促す商習慣があった。

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 機能のすぐれた製品を新しく開発しても、自社の生産設備だけに頼っていればどうしても供給能力は細りがちとなり、値段も高くなる。そうなれば性能を評価してくれるユーザーも「高くて使えない」と結論づけ、大きな開発投資をつぎ込んだ製品が、市場を開拓しきれないまま消えていく可能性が増す。そうした事態を防ぐために、契約にもとづいて新製品の情報を競合するメーカーに開示し、コピー商品を市場にどんどん送り込んでしまう手が試みられた。もちろん新製品とまったく同じものを作るセカンドソースを置けば、自分自身がすぐに厳しい価格競争にさらされることになった。だが、差し引きすれば、それでも市場が掘り起こせることのメリットの方が大きいとするこの手法は、半導体産業の中で有効な戦略として機能した。

 日立製作所はモトローラと、6800に関するセカンドソース契約を結んでいた。日立の半導体部門は6800を解剖してこれを使ったシステムの記事を連載している人物が大学4年生であるという情報を得て、松本に正規の採用を持ちかけてきた。

 連載記事とつごう4件飛び込んできた開発依頼をこなすのに精いっぱいで、同級生が懸命に取り組んでいる就職活動を他人事のように見過ごしていた松本は、日立からの誘いを受けてあらためて自分が卒業間近であることを確認した。

 声をかけてくれた半導体部門は、パーソナルコンピュータに興味を持っており、その開発要員にと考えてくれているという点にも興味があった。

 だが「お世話になります」と答えて間もなく、必修科目の微分方程式の単位が取れず、3月には卒業できないことが分かった。日立では、卒業証書なしでもかまわないといってくれたが、固まりかけていた気持ちにこの1件でひびが入った。連載もまだ残っていたし、頼まれていた開発の仕事にもけりの付いていないものがあった。就職して給料だけに頼れば、大幅に収入が減る点は覚悟していたが、いったん気持ちが緩むとそれもばからしく思えてきた。

 日立からの声がかかるまでは、科学分野を中心にしたライターになれないかと考えていた。当面はこのままエレクトロニクス分野の仕事を中心とし、いずれは科学と社会のあり方にテーマを広げていく。目覚ましく進んでいく科学技術と、旧態依然とした社会科学との橋渡しをする仕事は面白くもあり、意義もあるのではないかとの思いがよみがえってきた。

 さらに松本には、農業の手習いにも本腰を入れてみたい気持ちがあった。松本の家は伊勢崎に田圃を1枚持っており、祖父が入れあげている自然農法には以前から興味を感じていた。

 日立には断りを入れ、9月卒業に向けて残った単位を取る一方で、連載と開発と農作業の手伝いを続けた。大きな反響を巻き起こした連載は1977(昭和52)年の5月号で終わったが、編集部からは内容を整理しなおし、書き足らなかった点を補ってすぐに単行本にしようと声がかかった。


 松本にとって初めての単行本となった『私だけのマイコン設計&製作』の初版本は、12月になって刷り上がった。年が明けるとすぐに増刷がかかり、その後も編集部が驚くほどの勢いで部数を伸ばし続けた。

 単行本が理工学書の売り上げランキングの上位につけると、『トランジスタ技術』以外の雑誌からも執筆依頼が舞い込むようになった。各地のマイコンクラブに招かれて講演をこなし、テレビ番組の企画にも駆り出された。伊勢崎の自宅に居座ったまま、請け負った開発や原稿書きに追われていた1978(昭和53)年の夏、松本は毎日新聞の記者の取材を受けた。6月から半年の予定で「マイコンの世界」と題した囲み記事を週に1度連載しているのだという。この世界の若いタレントの代表格として松本の話を聞きたいと、記者は取材の狙いを説明した。

 そもそもマイクロコンピュータにかかわるようになった経緯や、本をまとめたいきさつ、執筆と開発に追われる現状や自分なりのブームに対する見方を話した。記者は8月23日の夕刊にもう1人の若きタレントと松本を並べ、「コンピュータを常識の一部とする〈マイコン以降派(マイ後派)〉1期生の代表格」と紹介する記事を書いた。

 早稲田大学理工学部の4年で『ASCII』の発行人兼企画部長であるというもう1人のタレント、西和彦とは、2年ほど前に顔を合わせたことがあった。

 『コンピュートピア』の発行元であるコンピュータ・エイジの主催で、銀座のソニービルを会場に開かれたコンピュータアート展には、松本も安田研究室からの出展の脇に連載記事に書いたMYCOM-8を並べ、バッハのインベンションを演奏させていた。この展示会に、ライトペンを使って操作する8008を使ったオセロのテレビゲームを出展していた大阪大学基礎工学部の山下良蔵とは、その後も連絡をとり合い、阪大に遊びに行くような仲になった。さらに松本はここでもう1人、異彩を放つ人物に忘れがたい印象を植え付けられた。大半の出展者がジャンクから取った部品でどうにかやりくりして安く仕上げたシステムを並べている中で、早稲田大学の学生であるという西は、数百万円はするのでないかと思われるHP製の機器を接続し、オルガンの自動演奏システムを組んで悦に入っていた。

 その西は今、青山のマンションにアスキー出版の事務所を構えているという。記事によれば、取材をかねて年に数度はアメリカに行くという西は、米国の関係者には「ジャパンのミスター・ニシ」として知られており、6月には全米コンピュータ会議(NCC)で「極東におけるマイクロコンピューティング部会」の座長を務め、日本の現状を報告してきたという。さらに西は、22歳の青年が社長を務め、ベーシックを売り物にアメリカで急成長しているマイクロソフト社と新しい会社を起こし、今後はソフトウェアの分野にも進出していきたいということだった。

 伊勢崎の松本の自宅に西から電話が入ったのは、2人の記事が互いの写真入りで毎日新聞の紙面を飾った直後だった。

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