第2部 第5章 人ひとりのコンピュータは大型の亜流にあらず |
1980 もう1人の電子少年の復活 |
西和彦、松本吉彦を誘う
富田倫生
2010/6/18
本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、日本のパソコン業界黎明期に活躍したさまざまなヒーローを取り上げています。普段は触れる機会の少ない日本のIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部) |
本連載は『パソコン創世記』の著者である富田倫生氏の許可を得て公開しています。「青空文庫」版のテキストファイル(2003年1月16日最終更新)が底本です。「青空文庫収録ファイルの取り扱い規準」に則り、表記の一部を@ITの校正ルールに沿って直しています。例)全角英数字⇒半角英数字、コンピューター⇒コンピュータ など |
「ベーシックとCP/Mを売れ」と
西和彦は語りき
西和彦は待ち合わせ場所に、京王プラザホテルのロビーを指定した。
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それまでホテルにはまったく縁のなかった松本は、電話口で京王プラザと聞かされ、あらためてコンピュータアート展の1件と、毎日新聞の西の写真を思い出して苦笑をかみ殺した。
南青山の事務所内のラボと称する電子機器を並べた1室に、アメリカから仕入れてきたらしいPETをしつらえた西は、ネクタイを締めてにこやかにキーボードに手を添えていた。長髪に眼鏡は共通していても、学生証からはぎ取ってきたような松本のものとは対照的に、西の写真からはすでに青年実業家のにおいが立派に漂っていた。
京王プラザのレストランに入ったところで西の切り出した用件は、松本のまったく予想していないものだった。
「僕と一緒にやらないか」
西は唐突にそう切り出した。
新聞記事にあったとおり、西はマイクロソフトと組む話をまとめてきたという。
これまではマイクロコンピュータを使って、とにかくハードウェアを作ってみることがテーマだった。だがこれからは、ポイントはソフトウェアに一気に移っていくだろう。いったい自分は何にコンピュータを使いたいのか。そのことが正面切って問われ、そのためにはどんなプログラムが必要なのかがもっともっと強く意識されるようになる。
早々と料理を平らげた西は、ブームの様相を呈しているマイクロコンピュータの流れが今後どこに向かうのか、胸の内から止めどもなく噴き出してくる言葉をかろうじてさばきながら、とうとうと語り続けた。
マイクロコンピュータを使ってともかくシステムを作り、スイッチやテレタイプから送り込んだプログラムが動くのを確認して喜んでいたのが第1世代。そこからシンセサイザーを動かすなり、鉄道模型をコントロールするなり、あるいは計算の用途に使うなり、何らかの自分なりの明確な目的を持って、さまざまな機器と手作りのシステムを組み合わせて使おうとする第2世代が生まれた。そしてさらには、システム自体は完成品を買ってきてこれを拡張しようとする、第3世代が誕生しつつある。今後はそこからもう1歩進んで、手持ちのシステムを目的に沿ってどう動かし、どう使うかを決めるソフトウェアの側に重点が移る。
そのソフトウェアの時代を制する鍵を、西は、マイクロソフトのベーシックとデジタルリサーチのCP/Mであるとした。
マイクロソフトの極東代理店となる約束を取りつけてきたばかりの西は、受け皿となる新会社の設立に向けて準備を進めていた。もう一方で西は、デジタルリサーチに乗り込んでCP/Mの代理店権を得る話もまとめており、新しい会社ではCP/Mとマイクロソフトのベーシックをともに売り込んでいきたいと考えていた。
新会社の社名として、西はアスキーマイクロソフトを予定しているという。
「この会社の中心で動いて、僕と一緒に日本を変えていかへんか」
そう語りかけた西に、松本は全体重をかけて時代の歯車を引き下ろそうとするような、強烈なエネルギーを感じとっていた。
パーソナルコンピュータをはじめからでき上がった道具として、ブラックボックスのまま使うという踏ん切りには、松本自身は寂しさに似た気持ちを抱いていた。
ふもとから一歩一歩登っていってこその登山。ヘリコプターをチャーターして一気に山頂に到達するよりも、システムを組む過程で理解と発見を積み重ねていった方が、よほど楽しいのではないかとの思いは禁じえなかった。
エレクトロニクスの魅力に引きずられて、真空管からトランジスター、ICと素子の変化を体験してきた松本にとって、マイクロコンピュータはあくまでデジタルICにすぎなかった。自分にとっては、この分野もエレクトロニクスの一部分以上の意味を持ちえないと、松本には確信できた。おそらくは西がマイクロコンピュータに出合った経緯も、そんなところだったはずだ。だが西は、ルーツであるエレクトロニクスを切り捨てて、パーソナルコンピュータの新しいビジョンにかけようとしていた。
毎日新聞は、マイコン界の若きタレントとして2人を並べた。だが西の説得力のある切れ味の鋭いビジョンにさらされているうちに、松本はむしろ、2人のあいだにある志向の食い違いこそをはっきりと意識するようになった。
その違いを、松本は面白いと思った。
レストランでアスキーの未来を一方的に吹きまくった西は、お膝下の南青山に松本を誘った。タクシーの中でもバーのカウンターについてからも、「パーソナルコンピュータは対話性のあるメディアとして育ち、社会のあり方を決定的に変化させてしまうだろう」と、西は語り続けた。
松本はグラスの中の氷を遊ばせながら、強烈な個性を持った西のビジョンに、自分自身をさらしてみようかと考えはじめていた。
1978(昭和53)年10月、新会社は予定どおりアスキーマイクロソフト(AMS)として設立された。
松本吉彦は、同社の1人目の社員となった。
群馬県の伊勢崎から南青山まで通うようになって、まず手がけたのはCP/Mのマニュアルの日本語化だった。
北海道大学の学生がざっと訳したという原稿を引き継ぎ、CP/Mを動かしながら内容を確認して、下訳を意味の通る文章に直していった。ディスプレイ上の表示の意味を説明するために英語版のマニュアルにあった画面のコピーには、キルドールの手書きの書き込みがあった。ただ中身を理解するうえではじゃまにもならないだろうと考えて、日本語版にもこれをそのまま使うことにした。厚さ1センチメートルほどのホッチキス止めしただけの日本語版マニュアルは我ながらみすぼらしかったが、デジタルリサーチの日本における代理店らしい体裁は一応はこれで整った。自分のマシンに合わせてBIOSだけは書くことができるように開発ツールを付けて、ユーザー向けにCP/Mを売り出した。
もう一方で松本は、各社のマシンにCP/Mを採用してもらうよう、OEMの営業活動にも取り組んだ。メーカーがCP/Mの採用に踏み切り、自社のマシン用にBIOSをあらかじめ書きなおした形で売り出すなり、標準的に本体とセットで販売してくれるなりすれば、ユーザーは対応したアプリケーションを買ってきてそのまま使うことができるようになる。フロッピーディスクドライブを利用しようとすれば、コントロール用のソフトウェアとしてはほとんど唯一の存在で、アメリカでアプリケーション開発の共通基盤としても機能しはじめていたCP/Mには、日本のメーカーも大小を問わず注目していた。
メーカーに採用を迫るうえで、松本自身、むしろ難しいと思わざるをえなかったのは、マイクロソフトのベーシックだった。
ことベーシックに関しては、日本でも当時すでにさまざまな選択肢が存在していた。
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