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パソコン創世記
第2部 第5章 人ひとりのコンピュータは大型の亜流にあらず
1980 もう1人の電子少年の復活

日本マイクロハード

富田倫生
2010/6/30

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本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、日本のパソコン業界黎明期に活躍したさまざまなヒーローを取り上げています。普段は触れる機会の少ない日本のIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部)

本連載は『パソコン創世記』の著者である富田倫生氏の許可を得て公開しています。「青空文庫」版のテキストファイル(2003年1月16日最終更新)が底本です。「青空文庫収録ファイルの取り扱い規準」に則り、表記の一部を@ITの校正ルールに沿って直しています。例)全角英数字⇒半角英数字、コンピューター⇒コンピュータ など

マイクロハード
パソコン開発奮戦記

 テレビカナタイプの仲間3人は、弱電関係の仕事を融通しあいながら、それぞれ自営で食っていた。彼らとシステムの開発だけを引き受ける会社を起こそうかと話を進めている最中、雑誌に書いた原稿をたどってソニーから仕事の口がかかった。

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 1拍遅れからのスタートとはなるものの、ソニーは今後パーソナルコンピュータに取り組んでいくという。ついてはシステムの開発の中心として、働いてくれないかという申し入れだった。

 4月からソニーの嘱託社員として働きはじめる一方で、仲間との会社設立の話も進めた。ソニーの一件があって社長は玉置にゆずり、前橋に事務所を借りて8月から株式会社の体裁を整えてスタートさせた。

 社名はマイクロソフトに引っかけて、日本マイクロハードを名乗った。

 セールスマンとしてベーシックとCP/Mを売り歩くことには愛想をつかした松本だったが、パーソナルコンピュータの開発を進めるとなれば当然、この2つの基本ソフトとの縁は切れなかった。

 あらたにパーソナルコンピュータに乗り出していくにあたって、ソニーは専門セクションのMC開発部を発足させ、まずはアメリカ市場に突破口を開こうと考えた。現地のコンサルタントを雇ってアメリカ市場の動向を分析させた結果、8ビットのCP/Mマシンが目標に据えられた。

 マイクロソフトのベーシックは確かにアメリカ市場の標準となっていたが、商品としてのプログラム開発の基盤として機能しはじめていたのはCP/Mだった。プロの書いたソフトウェアを買ってきて使うだけなら、わざわざ動作の遅いインタープリターを開発用の言語とすることには、積極的な意味はなかった。商品としてのソフトウェアなら、アセンブラーなり、コンパイラーなりで書く方が賢明だった。

 パーソナルコンピュータでもいち早くフロッピーディスクが使われはじめたアメリカでは、パッケージ開発の基盤となったのはCP/Mだった。すぐれたソフトウェアを安く提供するうえで、トム・ピットマンが不可欠と考えたプログラムの互換性はCP/Mによって提供された。

 インテルの8080や、互換性を保ちながらこれを強化したザイログのZ80を使ったマシンは、軒並みCP/Mの採用に踏み切っていた。CP/Mには多くの言語が移植され、さまざまなユーティリティーが書きためられ、ワードプロセッサーのワードスターのようなヒット商品も生まれていた。

 6502を使いながら8ビットの代表機種となったアップルII は、CP/Mの文化圏とは距離を置いた独自のアプリケーションの世界を築いていた。アップルII 用のフロッピーディスクドライブ、ディスクII には、独自のアップルDOSが使われていた。だがアップルII でも、CP/Mを使えるようにしようとする試みはあった。CP/M用にさまざまな言語を商品化していたマイクロソフトは、アップルII のユーザーもこのOSに対応したプログラムを利用できるようにする商品を開発しようと考えた。

 1979(昭和54)年の秋、この企画の技術検討を最初に持ちかけられたのは松本吉彦だった。

 マイクロソフトの副社長となっていた西和彦は、アスキーマイクロソフトを退職したばかりの松本に、アップルII の増設スロットに差し込んで使うCP/Mボードが作れないかと声をかけた。

 このときじっくりとアップルII のハードウェアを見なおした松本は、スティーブ・ウォズニアックの仕事の切れ味にあらためて鮮烈な印象を受けた。アップルII は、最小限の回路でどれだけのことができるかを突き詰めた、エレクトロニクスの精緻な細工だった。限られたメモリーで6色のカラーを表示する仕掛けや、動作に必要なすべてのタイミング信号を1つの回路でまかなってしまう徹底さには息を呑まされた。アップルII の回路を追っていくうちに、松本はウォズニアックという天才的な芸術家の個展に迷い込んだような感動を味わった。

 このアップルII という名の芸術作品でCP/Mを使うためには、本来このマシンが使っている6502に代えて8080系のマイクロコンピュータを動かす必要があった。西からの注文は、Z80を載せたCP/Mボードの開発だった。だがZ80の動作するタイミングとアップルII のバスのタイミングは、どう工夫してみてもすっきりと合わせられなかった。無理矢理合わせることは可能だったが、シンプルをきわめたアップルII に力任せの回路を加えることは、天才の芸術に墨を塗るような行為に思えた。代わって松本は、アップルII のバスのタイミングで動くZ80を半導体メーカーに起こしてもらい、これを使ってボードを開発するべきだとの提案をまとめた。だがこの時点では、あらたにマイクロコンピュータを起こしなおすことを、マイクロソフト側は非現実的であると判断した。

 翌1980(昭和55)年8月にマイクロソフトから発売された、CP/MをアップルII で使うための増設ボードの回路を、松本は苦々しい思いで読むことになった。

 〈汚い回路だな〉

 ソフトカードと名付けられたこの製品を一目見てまず湧き上がってきたのは、アイドルの作品を汚されたような不快感だった。だが何はともあれCP/M文化圏に橋を架けたソフトカードは、多くのアップルII ユーザーから支持された。

 少なくともアメリカ市場において、CP/Mはソフトウェア流通の揺るぎない基盤となっていた。この市場に乗り込んでいく以上、CP/Mを前面に押し立てるというコンサルタントがまとめ上げた結論は、松本にとっても当然のもののように思えた。

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